静寂が訪れた。
今頃誰かが私の本を読んでくれていると思うと胸が熱くなる。
本当はこの本を届けたいと思う人が五万といる。
しかし、本を買う余裕さえ無い人もまた五万といると云うことを私は知っている。
二十歳前後から二十四歳に至るまで、私は同棲している彼氏の借金四百万円の返済に明け暮れて、大好きな読書などしている余裕はこれっぽっちも無かった。
つまり四年間一冊も本を読むことができなかったのだ。
CD一枚買うことすらできなかった。
Tシャツは洗い替えしか持っておらず、化粧品も買えなかった。
今でこそ古本屋があるが、昔はそこまで古本は出回っていなかった。
仮に古本があったとしても、やはり買えなかった。
酒や煙草を買うのも自由には行かず、とてもとても苦しい生活だった。
携帯電話も持っていなかった。
そんな時に新刊の本を買うなんて、あり得ない話だ。
それは重々承知の上で書かせてもらうならば、本当はそういう人にこそ読んでもらいたい本なのだ。
コロナで職を失って住まいも失って、アパートを借りるにも保証人がいなくて困っているような人達にとって、私の自叙伝的エッセイ『破壊から再生へ』は少しでも役立つに違いない。
とある人はこの本のことを「アクションシーンの無い痛快な活劇である」と仰っていた。
まさにその通り。
困難にぶち当たりながらも生き抜く私の姿は痛快そのもの。
読み終えた方からは、よくぞ生き延びた!との声を戴く。
買ってくださった方々は、何を考えどう感じたのか。
どんな心境で読み耽ったのか。
それらを想像するだけで、感慨深い気持ちになる。
今の時代、本は買えなくても携帯電話は持っている方が殆どなのではないだろうか。
私にできることはSNSに文章をアップすることくらい。
何の足しにもならないかも知れないが、やれることはやる。
最近私の本を買ってくれた方がいて、きっと今頃読んでくれているはず。
その人にとって、ためになる本であることを願ってやまない。
彼氏の借金を完済した私は、泣きながら札幌を出た。
自分の役目は終わったと思った。
彼には幸せになって欲しかった。
しかし私は彼を幸せにできるような人間じゃないと悟った。
彼には家庭が必要だと思ったのだ。
ただ、私には子供を産むという勇気が無かった。
私は彼を裏切ることを選択した。
いっそのこと嫌われた方がマシだと思った。
彼が出稼ぎに行っている間、私は荷物を纏めて小樽から新潟行きのフェリーに乗った。
その後彼は割と直ぐに別の女性と結婚した。
私はブラック企業で残業の嵐。
一番大切なものを失ったことに気付いたのはしばらく経ってからのこと。
後悔しても、戻ることはできなかった。
しかし私がSNSを始めて、再び彼と繋がることができた。
名前で検索してくれたからだ。
今となっては良き友達。
彼は二人の男の子のパパになった。
私は彼の奥さんには心の底から感謝している。
奥さんが彼を幸せにしてくれたから、私は自分の幸せを追い求めることができる。
そう云うことだ。
彼が未だに一人で札幌の街をウロウロしているようなら、私は心配で仕方なく、ここで呑気に文章など書いていることはできない。
幸せになってくれたからこそ安心していられるのだ。
私のことを心配してくれているかどうかなどどうでもいい。
お互いに別の人と結婚したが、揺るぎないものはあると思っている。
嫉妬?
するわけないだろ、心から感謝。
私にできないことをしてくれた人には尊敬の念すら抱いている。
これは事実で綺麗事じゃない。
ただ一つ想うことがある。
彼もこの本を買ってくれた。
どんな心境で読んでくれたのだろうかと考える。
きっと笑ってくれたに違いない。
アクションシーンの無い痛快な活劇だから。
相変わらずだな、と。