nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

運命のチケット

何時になく夕貴はモチベーションが高かった。

今日はもう一本書けそうだなと思ってパソコンに向かう。

お腹が空いていたが、料理している場合でもないと思った。

書ける内に書いてしまわないと、恐ろしいスランプに襲われることを夕貴はこの五年間で学んだのだ。

夕貴はフリーになってみたものの、単価が安くて貯金を食い潰して生活していた。

その時夕貴は三十六歳。

足掛けで一年間だけ過ごした札幌を出て千葉県の蘇我というところでアパート暮らしをしていた。

仕事量の割には全く稼げず、何か別のことをやろうかと考えている時だった。

 

当時はまだある程度の貯金が残っていたので、何かを変えたくて夕貴は札幌行きのチケットを買った。

ただ単純に友達が経営するバーへ行きたかっただけだ。

貧乏人のやることではないとわかっていたが、どうしても運気を変えたかったのである。

そしてマスターに会いに行って、軽く飲んでホテルへ帰るつもりだった。

ところが別の友達と居酒屋でご飯を食べながら飲むという約束をしてしまった夕貴は、バーへ着いた頃はもう既に結構酔っていた。

それでも夕貴は居酒屋にタクシーを呼んで、バーへ向かった。

ホテルに帰れば良かったのだが、マスターに「行く」と約束してあったし、マスターに会わずして千葉に帰るわけにはいかなかったのだ。

暑くもなく寒くもない、神秘的な初夏の夜だった。

何かが起こりそうだが、とても静かだった。

 

マスターは夕貴が店に着くと、看板をクローズにして貸し切り状態にしてくれた。

メーカーズマークの水割りをハイペースで飲んでいる夕貴を見ながら心配そうな表情を浮かべていたが、お決まりのドアーズの「ラブミートゥタイム」を流してくれた。

夕貴が店に入った時は、クラプトンが流れていた。

ボブマーレーの「アイ・ガット・シェリー」のカバーだった。

夕貴の好きな曲だ。

マスターはそれを覚えていて、夕貴のことを待っていたようだった。

 

「マスター、あのね、今日新千歳空港から札幌に向かう電車の中で芸能プロダクションの社長さんから連絡があったのよ」

 

凄いじゃん!と言いかけてマスターは一瞬考えてこう答えた。

 

「それ、大丈夫なのか?」

「私のツイッターを見て、声を掛けてくれたの。明日チェックアウトが十二時だから、九時から電話で打ち合わせなのよ」

「変な芸能プロダクション多いから気を付けろよ」

「AVに売られるとか?」

「そう、それとか自分の女にしようとするとかね」

「マスターは勘が鋭いからね。でも私なんかAVには売られないよ。もう若くはないんだから」

「その社長、幾つ?」

「五十八歳で独身だって」

「ほらやっぱり」

 

しかし夕貴は芸能プロダクションの社長とコンタクトが取れることを楽しみにしていた。

一体どんな打ち合わせになるのだろうかと。

 

打ち合わせは社長が九時を待ち構えていたように夕貴の電話を鳴らし、チェックアウトギリギリまでかかった。

と云うよりも、社長の話を延々と聞いていただけで夕貴は殆ど何も喋っていない。

社長の言い分はこうだった。

夕貴がツイッターやブログに流した無料PDFを読んで、一緒に仕事がしたいと思ったらしい。

纏まった本はあるのかと訊かれたので、無いと答えた。

ただ、パソコンの中には書き溜めたものは沢山あると言った。

それからしばらくの間、社長との交流が始まった。

しかし、マスターの謂う通りだった。

私が書き溜めたものを見せると、やはり本を出すために自分の女にしようとした。

一切の交友関係を絶てと言ってきた。

が、夕貴にはそれができなかった。

 

結局芸能プロダクションに所属したものの、細々した仕事しかせずに終わった。

何から何まで社長の好みに合わせるように強要され、夕貴の個性を尊重してくれることは無かった。

無論、その社長は夕貴とは真逆の感性の持ち主だった。

社長が趣味で作っている映画を何本か観たが、下らないとしか思えなかった。

その後夕貴は過去に書き溜めたものを小さな出版社に持ち込んで電子書籍として発表することにした。

社長の女になるより、よっぽど自分のためになると思った。

それが夕貴にとっての第一歩だった。

思い切って札幌行きのチケットを買ったことによって、やはり運命が変わったのだ。

夕貴は今も尚、そう思っている。

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)