それは昨日の朝のことだった。
十一時間以上の睡眠を取ってリビングに降りてくるとドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると寒そうな郵便屋さんが一つの袋を持って立っていた。
荷物?
開けてみると『村上龍文学的エッセイ集』だった。
前日注文したばかりのものだったので、あまりの速さに驚いた。
ファンの一人としては宝物になるに違いないこの一冊は、非常に分厚く読み終えるのに一ヶ月じゃ足りないだろう。
最近積極的に読書をするようになった。
とあることがきっかけとなり、長いトンネルを抜け出すことができたからだ。
開き直るが、私には知識も経験もない。
あるとすれば少しばかり人よりも色んな世界を知っていることくらいだ。
それを武器に文章を書いているのだが、やはり未知の世界はまだまだ山のようにある。
そして好奇心だけは失っていない。
だから本を買うようになったのだ。
無論、長い間、文章を書くということに於いてはスランプのような状態だった。
何を書いても面白くなく、仕方がないから日記のようなものを毎日書き続けた。
況してや、書けないだけではなく読む気力すらなかった。
毎日睡魔との闘い、自己嫌悪の嵐、無能な自分に対する怒りと焦り、そして虚無感が私を襲った。
そんな私を救うかのような出会いがあった。
彼は決して前向きな言葉を並べているわけではないのだが、私の胸には見事に突き刺さり、分かり易く言えば起爆剤になったのだ。
それから私は今まで溜まっていたものを吐き出すように文章を再び書き始めることになった。
作品と云うほどのものではないが、千五百文字を埋め、SNSにアップするようになった。
そうするうちに、やはりもっと上達したいという欲が生まれる。
そして一人でも多くの人に愛されたいとまで思ってしまうのである。
故に、読書に走ったわけだ。
私にとって読書と云うものは、エッセンスでありエンターテイメントだ。
そして作家とは、知らない世界へ連れて行ってくれる旅の案内人のような存在だ。
しばらくの間、友達にもらったエッセイ以外読んでいなかった私だが、どうも気になって真っ先に買ったのが「三井小鉄」という私よりもかなり若い作家の小説だ。
夢中になって読んで、遂に読み終えた。
彼は私の年下だが、先輩である。
四年前に同じ出版社から『忘れ去られた記憶ほど悲しいものはない』という著書を発売している。
まさに今、それを読んでいたのだ。
今日からは村上龍の新作エッセイを読む予定だ。
こうして私は暗く長いトンネルを抜け、再生の道を辿る。
トンネルの中にいた頃は何をしてもダメだった。
ただ暇を弄ぶわけにもいかず、コツコツと在宅ワークはやっていた。
『破壊から再生へ』の校正も同時進行していた。
手が空くと映画を観たが、真昼間から映画を観るのはなんとなく罪悪感があった。
殆どの人が働いている時間帯に、娯楽を楽しむことを良しとしなかったのだ。
白紙に向かうことは日課としていたので、駄文でもいいから「何か」書いた。
今日はどんな気分で、何の仕事をして、何を食べた、と云うようなものばかりだが、取り敢えず書き続けた。
『破壊から再生へ』の出版日を迎えても突破口は見いだせなかった。
こんな状態の私が本を出すなんて、なんとなく後ろめたかった。
しかし、諦めたわけじゃなかった。
どんなに具合が悪い日でも、千五百文字を埋めることは止めなかった。
今では昔のように、書くことが楽しくなっている。
義務でもなく、誰かに強要されているわけでもなく、単純に自分の成長をこの目で見届けたいのである。
そしてルーティンを守るということは最強だと思い知る。
歯を磨くことと同じように白紙に向かうことを日課とすること。
やっと少しずつ光が差してきた。
そんな今日この頃。