nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

エッセンスについて

ブラインドから差し込む光が眩しかったが、外は晴れているということはわかった。

昼時だったが、冷蔵庫の中に卵が入っていない。

これじゃ、目玉焼きが作れない。

棚を物色するとカップラーメンしかなかった。

昼間からそんなにガッツリ食べる必要もないよなと思った私は仕方がないので回覧板を回すついでに卵を買いにスーパーへ行った。

スーパーまでは歩いて三十秒ほどの距離なのだが、余程の用が無い限りあまり行かない。

週末に買い出ししたもので一週間を賄う。

自宅へ戻ってきて目玉焼きを食べていると、マヨネーズを切らしていることに気がついた。

しかし午後にFAXを流しに行かなければならないので、その時に買うことにした。

午前中は少し仕事をして、相変わらず『村上龍文学的エッセイ集』を読んでいた。

まだ六分の一程度しか読み終えていない。

この本を読んでいると、私には「エッセンス」が欠けているのではないかと思えてきた。

面白い映画を観たり、めちゃくちゃ美味しいものを食べたり、素晴らしい本を読んだり、綺麗な景色を眺めたりすることだ。

日頃から劣化してきたフライパンで安い肉を焼いて食べると云うような食生活で、殆ど野菜を摂らないから冷蔵庫の中にはドレッシングもない。

テフロン加工が剥がれてきているので、肉に焦げが付く。

それを防ぐために油を多めに入れる。

実に身体に良くないことをやっているのだ。

昔はよく料理をしたのに、どうも今はする気になれない。

美味しいものを食べていないと感性も鈍ってくるような気がして恐ろしいのだが、それでも長時間台所に立つ気にはなれない。

それはきっと読者が一人もいない状態で文章を書くのと似ていると思った。

とある人に言わせれば「稚拙」であるこの文章も、たった一人には喜んでもらっているという安心感と張り合い。

気合いとモチベーション。

その存在がいるのといないのでは大違いである。

つまり、食べさせたいと思う相手がいないから自分の腹が満たされればいいやと思ってしまうのだ。

酒のつまみになれば何でもいいやと。

やはり何事も相手があってこそなのだと、今更ながら痛感した。

仮に読者が一人もいなくても書き続けるだろうと思っていた。

しかし、ここ最近はやはり読者がいるからこそ書き続けていられるのだろうと考えるようになった。

これからも引き続き読んでもらうためには、飽きさせてはならない。

つまり、そのためには私自身に「エッセンス」が必要なのではないかと思うのだ。

基本的に「エッセンス」には金が掛かる。

だからと云って取り入れなければ、何も生まれなくなる。

どんどん感性が鈍り、奈落の底を歩むことになる。

とある人は子供達にロックを聴かせることが子育てだったと言っていた。

それって最強の「エッセンス」だと思った。

私は昔から太宰治村上龍を読んで大人になったのだが、それも「エッセンス」。

一九六〇年代後半のロックを聴いていたのも紛れもない「エッセンス」だ。

ドアーズ、ジミヘン、ヴェルヴェットアンダーグラウンド、ブラックサバスだけではなく、ストリートスライダーズやミッシェルガンエレファントを聴いていたのも「エッセンス」。

文章を書くのに行き詰ったら、小さな音でロックを聴くようにしている。

今日も何が書きたいのかわからなくなってきたので、ミッシェルガンエレファントを鳴らしている。

久々の彼等の音楽は私にとってはとても心地が良い。

ボーカルのチバユウスケは年齢的には日本を代表する最後のロックンローラーだよね、とたまに友達と話をする。

 

さて、文章を書くための「エッセンス」をどうすれば取り入れることができるかと考える。

私は文章を書く時、酒は飲まない。

やはり仕事が終わって居酒屋で美味い刺身を食べながら日本酒が飲みたい。

そして街の空気に触れ、空を感じること。

どこか遠いところへ行きたい。

それが一番の「エッセンス」のような気がしてならない。

誰もがこの時期、そう思っているだろうが。

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)