nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

自由自在に!

こうして毎日文章を書いていると、何が正しくて何が間違っているのかわからなくなってしまう時がある。

これは傑作だと思うものに限って反応が悪かったり、駄作だと思っているものにコメントを戴いたりするからだ。

そんなことは気にする必要はないのかも知れないが、せっかく読んでくださっている方の期待を裏切りたくないとか下らないことを考える。

愚かだなと思いながらも、反応が気になって仕方ない自分がここにいる。

え?なんで?みたいな文章の反応がいい時は、私はそもそも大事な局面に於いて何かを間違っているのではないかと感じてしまう。

しかしどんなに分析したって答えなど無い。

 

週末の私は本当に時間が無い。

家の仕事をしなければならないからだ。

ジムニーで近所のホームセンターへ行ったり、業務用スーパーで一週間分の食糧を買い溜めしたりしている内にあっという間に午後三時。

昼食に『大戸屋』という定食屋で親子丼を食べたせいか、全く空腹感はない。

それでも休日は午後五時には夕飯を作り終えなければならないのだ。

だから猛ダッシュで文章を書くので面白いものが書ける自信がない。

しかし、時間が無く、追いつめられている時に限ってペンが進むということが度々ある。

 

帰宅後、換気扇の下でザクロ酢を飲みながら一服していたら、「自由自在」という単語が頭に浮かんだ。

自由自在に文章が書ければこんなに楽なことはない。

とはいえ「自由自在」って一体なんだ?という疑問が頭をよぎった。

調べてみたら「どのようにでも思いのままにできるさま」と出た。

そもそも自由自在など存在するのだろうか。

確かに独身時代、狭いアパートで文章を書いていた頃は自由だった。

その代わり、病気になったり保証人が必要だったりした時はとてつもなく不自由だった。

拘束されることがない分、助けてくれる人もいない。

かといって家族がいるのに味方になってくれないケースがあると云うのも最近分かった。

それって最悪だよなと思った。

家族とはいえ皆一番大事なのは自分。

私が病に侵されたり、大怪我をしたりしたらきっと入院を勧められるだろう。

看病したくないからだ。

そんなことを考えていると、「自由自在」のことを考える前に「家族」って一体なんなんだ?と頭の中がごちゃごちゃになる。

理想と現実が全く違っていて、益々家族と云うものが何なのかわからなくなった。

一人だった頃はあんなに孤独に震えていたのに、今となってはあの頃の自由が眩しく見える。

バイトだろうが何だろうが一人で生活していると、この生活は勝ち取ったんだ!と云う気分になれた。

本来なら結婚って云うのは勝ち取ったことに繋がるのかも知れないが、私が抱えているのは敗北感。

なんだか自分との闘いに負けたような感覚。

その辺が世間とは価値観が違う。

私には私なりの幸福の価値観がある。

それは、もう何度も何度も何度も言っているけど、一体感なのだと思う。

もっと分かり易く言うならば、二人三脚になること。

足りない部分を補うということ。

お互いがお互いの味方であるということ。

そういう最低限のことを心底求めている。

確かに独身時代に比べて親戚は増えたよな。

だからといって「味方」?

いやいや、全然違うだろ。

だけど先日読者の方からこう言われた。

 

「思うがままに自由に書き綴って行けばいいと思います」

 

そう云うことか!

少なくとも白紙の上では自由でいていいんだ。

そう考えると、少し楽になった。

何が正しくて何が間違っているのかなんてことは考えなくていいんだという答えが出た。

この白紙こそが「自由自在」ということだ。

ということは私はもう既に「自由自在」を手に入れているじゃないか。

何事もポジティブに考えることが重要だ。

能天気さも時には大事。

ただ今日は最後の一行が決まんないんだよ!!

自由自在なはずなのに。

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)