橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

どん底を利用する

珍しく書斎に籠ってボブディランを聴きながらこれを書いている。

書斎があるのにリビングで仕事をするのは幾つか理由がある。

一番は、煙草が吸えないこと。

私の書斎の壁紙などボロボロなのに、壁紙が黄色くなると困ると云うわけのわからない言いがかりをつけられて禁煙なのだ。

それでも今私が書斎に籠っているのは、デスクトップパソコンでしかCDが聴けないからだ。

リビングにオーディオ機器が無いのである。

だからリビングで仕事をする時は殆ど無音の状態でパソコンに向かっている。

たまに音楽が聴きたくなってもYOUTUBEしか手段が無いわけだ。

ところが先日友人からCDをもらった。

それらを聴くために書斎に籠っているという話だ。

久々に聴くボブディラン。

況してやライブのものである。

勿論知っている曲もあれば、知らない曲もある。

実に贅沢な時間を過ごしている気分になれた。

 

ところで先日友達が話をしていたのだが、どん底にいる時の方が言葉が生まれるそうだ。

もがき苦しんでいる時の方が、内容の濃い文章が書けたりする。

彼女は詩を書いているのだが、芸術とはそういうものかも知れないと言っていた。

非常にポジティブに考えれば、この絶望的な現状を利用して新作を書いてしまえば良いということになる。

私が幸せを手にすれば、書く内容が変わってくるだろう。

ラブストーリーでも書けるようになるのだろうか。

私にはそれらしきものを書いた経験がない。

必要ないと思っているからだ。

それよりも何度も何度も何度も言っているように、この世には希望があるということを指し示し、立証することの方が大事なのだ。

この状況を打破し、希望を見出すまでの過程を大切に描写し、読んでくださる方に提出することが何より重要だ。

それが本を出すということになるのではないだろうか。

先日も書いたが、メジャーに拘ることなくインディーズで活動して行こうと決めたのだが、完全なる自由ではないと思っている。

私が経験してきたこと達を整理整頓して読者に提出するということは、実に緻密な作業である。

しかしそれが私の仕事でもある。

提出した文章を読んで、読者がどう感じるかはわからない。

理解してくれる人もいれば、わからないと放り投げる人もいるだろう。

しかし、もっとわかり易く言えば、絶望的状況に居る人は私の文章を読むことによって少しでも希望を感じて欲しいのである。

日本中に私の文章を求めている人がどれだけいるかわからないが、確実に需要はあると信じている。

絶望や希望を描く人は勿論私だけではない。

そこはそれぞれが自分に合った作品や作者を選べばいいと思う。

私は絶望的環境を巧く利用して、どん底を味わいながら新作を書く。

こんなこと言ったら、作家の人からは笑われるだろう。

文章と云うものは、楽しみながら書くものであって苦しみながら書くものではないと。

しかし考えてみよ。

お金を払って買う側は、生きるヒントを見つけたくて必死なのだ。

半ばすがる想いでその本を手にするわけだ。

私は楽しみながら書くと云うことに反対ではないが、どん底から這い上がって綴った文章の方が説得力があると思えてならない。

かといって、自分を苦しい方へ追いやる必要はない。

これは絶望的状況から抜け出せない私が考えたポジティブ思考というだけだ。

どうせ抜け出せないのだったら地獄に舞い降りてくる言葉を綴って行こうという話だ。

思考の転換というヤツだ。

たぶん、絶望的状況はいつまでも続かないようにできている。

良い時がいつまでも続かないのと同じだ。

嫌な奴はネタにしてしまえば良いし、好きなだけどん底を味わえばいい。

そのうち希望が見えてきたら一目散に飛びつくこと。

ダッシュで飛び込めばいい。

そんなことをボブディランを聴きながら考えた。

 

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)