橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

エンディングをフィクションで塗り固めたくない

「人生に於ける全ての出来事は『題材』になるんだよ」

 

そう言われた。

確かに私の人生ソックリそのまま作品にしてしまうことはできる。

あれもこれも、作品にしてしまえばいいのだ。

だが、私が今一番求めているものは『説得力』だ。

絶望の先には希望があるということを証明したいのだが、絶望の中にいる私が希望を見出せなければ説得力がないという話だ。

私が希望を掴んでこそ、読者はその姿に勇気づけられるのではないだろうか。

そのためには行動するしかない。

どういう手順を踏んで行けばいいのかはある程度固まった。

一番大切なのは、先ず、飯が食えること。

私ももう四十一歳なので、危険な冒険はできないと考えている。

大勝負に出るのだから、失敗は許されない。

侘しい想いもしたくない。

つまり今より良い状況に向かって行かなければ意味がないという話。

今のままではこの物語は完結しない。

やはり大きく変える必要がある。

本当なら徹底的に話し合いができればいい。

しかし話が通じる相手ではない。

今までひたすら我慢して、この環境に耐え忍んできた。

ところが、私の中で限界を感じるようになってきた。

と云うよりも、人間っていつまでも待っていちゃくれないのではないかと云う焦りが芽生え始めたのだ。

 

それは作品創りに関しても言えることだ。

私が毎日文章を書くのは、常に新鮮なものを読者の方にお届けしたいからだ。

逆説的に言えば、飽きられたり忘れられたりするのが怖いのである。

だからどんなに忙しくとも毎日欠かさず書いている。

その背景には、恐怖や焦り、不安が隠されているということだ。

尤も、私は常に動いていないと気が済まないタイプなので、書くことは全く苦ではない。

アクセスにビビりながらも、書くことを楽しんでいる節がある。

人を信じられないのとはちと違う。

どちらかと言うと人への期待を捨てられない。

だが、人はそこまで私如きに関心はない。

とはいえ、少しでも自分に関心を向けたくて書いていると言っても過言ではない。

世の中と云うものは、想像している以上に無関心で薄情なものだ。

だからこそ、待ってくれている人をむやみに放っては置けないのだ。

私のことなど、きっと半分も想ってはくれていない。

それを前提で、これからもまだ待っていて欲しいのなら、それなりの行動をするしかない。

忘れられないように毎日文章を書くことと同じだ。

だから私に会いたいと思ってくれている人をいつまでも待たせる訳には行かないのである。

そのためにはどうすればいいのか。

 

 

そこで話は戻る。

 

 

「人生に於ける全ての出来事は『題材』になるんだよ」

 

良いと思う展開に自分で持って行けばいいのではないだろうか。

今抱いているこの葛藤も、悩みも、不安も全ては題材になる。

私のように本当は別れたいのだけど、生活のために別れられない人なんて五万といる。

今までは耐え忍んできたものの、私が希望を掴み取ればそれは多くの人にとっての励みになるのではないか。

私が生活のために別れられないと云うような文章を書いたとして、一体誰がそれを読んで希望を見出すというのか。

希望を掴むまでの道のりは決して穏やかではないだろう。

しかし、自分の直観を私はどこまでも信じている。

近いようで遠いが、遠いようで近い。

どこまでもリアリティを追求したい。

エンディングをフィクションで塗り固めたくない。

この手でしっかりと希望をキャッチして、堂々とそれを書きたいのだ。

たぶんそれはそんなに大掛かりなことではないはずだ。

 

とある人からはこう言われた。

必要なのは話し合う勇気だと。

ハッとさせられたが、その通りだと思った。

 

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)