希望って云うものは、月が雲に隠れて見え隠れするようなものだと思った。
ハッキリくっきりと見えていれば誰も不安になったりしないのだろう。
たまにしか見ることができないから貴重なのかも知れない。
そんなことをルーリードの『ベルリン』を聴きながら考えていた。
そう云えば、富山県で孤独だった頃、月だけが友達だったよなって。
仕事の帰りに空を見上げる。
月が見ることができれば、私はまだ大丈夫だと言い聞かせた。
見えない時は、必ず見える日が来ると月に祈った。
そう云った月との対話は、生きる希望を探している私の姿そのもの。
見える時もあれば、見えない時もあるのだ。
つまり、希望自体は、とても不安定なものであると云うことだ。
それを信じる信じないは、やはり己に係っている。
そう云うことなんじゃないのかなぁ。
自分を信じる力が強ければ強いほど、希望は眩しく光る。
逆にそれができなければ、雲に隠れて見失ってしまうのではないだろうか。
自分を信じるって云うことは、結構しんどいものである。
私は割と簡単に言っているように見えるかも知れないが、決して楽なことではないと思っている。
並大抵のエネルギーでは、自分なんて云う未熟者を信じることは困難に近い。
それなのに自分を信じなければならないのは、先にも述べたが希望を見失うからだ。
人々は希望があるから苦境を乗り越えて行けるのだと思う。
世の中に絶望しかなかったら、今以上に自害する人は後を絶たないだろう。
だけどそんな時、夜空に月を探す精神的余裕があれば大丈夫だ。
希望と云うものは月のようなもので、気まぐれななんだと思えれば絶望感から這い上がれるに違いない。
つまり私のように文章を書いたり、中には詩を書いたり小説を書いたり絵を描いたりする人は、少なくとも自分のことを信じているのではないかと思う。
自分では絶望的だと思っていても、表現する余裕があると云うことは、自分の才能や感性を信じていることになる。
それが酷評されて絶望的になることはあるかも知れないが、きっと自分を信じてまた書き始めるだろう。
私にもそんな経験がある。
でも懲りずに今も書き続けている。
結局、信念が揺るぎないものだったのだろう。
自分なんてものは、見えたり見えなかったリするものだ。
こないだまで自信満々だったのに、急に頼りなくなってしまったり。
そんなものだと思う。
強気な一面も臆病な一面もあって当たり前。
そうやって自分を慰めることも大事。
私なんて強気と弱気が一体となって、泣きべそ掻きながら夜逃げ出来ちゃうタイプ。
そんな時、助手席から見る風景は自由に満ち足りて、この世で一番美しいんだろう。
昔、恋人と別れを決めた夜に八王子の川の上に花火が上がっていて、別れを祝福してくれるような気がして、思わずジムニーを横付けしていつまでもいつまでも眺めていた記憶がある。
もう二度と見られない気がして、橋の上からずっと花火を見ていた。
確か、その時ジムニーの中で流れていた曲がRCサクセションの『ベイビー!逃げるんだ。』で、そのマッチングが可笑しくて仕方なかった。
あんな男からは逃げるんだ!と思いながら、可哀想な気がした。
きっとこれから訪れる別れを体験する時も、その時と同じような気分に浸るのだろう。
さっきまで『ベルリン』を聴いていたのだが、ミッシェルガンエレファントのライブに切り替えた瞬間、やっぱりまたちょっと強気になれたりして、私だって一度くらい幸せを味わったっていいじゃん、みたいな。
希望は月みたいなもの。
帰り道に発見する花火みたいなもの。
とても気まぐれなものだから、ハッキリくっきり見えなくて当たり前。
今日伝えたかったことはそう云うことだ。
大丈夫、自分を信じていて損することはないから。