橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

フィフティフィフティ、お互い様の概念

ハードロックが心地良いということは、少々立ち直ったのだろう。

UFOやグラハムパーカーを聴きながら煙草を吸ったら、やる気が漲ってきた。

落ち込む時はとことん落ち込むが、案外立ち直りも早い。

私って云う人間はそういう風にできている。

絶望感に浸っている時は真っ暗なのだが、日が経つにつれ嘘みたいにケロっと忘れることができる。

それは何故かと云うと、音楽と酒があって、パソコンがあって煙草があるという至ってシンプルなことかも知れない。

シンプルなものこそ絶望から救ってくれるのだろう。

そして私はこれを書き終わったら、読書をしながら新作の構成を練る。

今月も残り二週間を切った。

来月の打ち合わせまでに、粗方決めてしまわなければならない。

集中してさっさと書き終えなければならない。

そう思った私はドアーズの『ミュージックイズオーバー』が七分を経過した時点で消した。

 

人間と人間は距離が縮まれば縮まるほど、摩擦が生じる。

親しき仲にも礼儀ありと云うのを忘れた時に、それが生じるのだろう。

傷付けられた側は立ち直ればいいだけなのだが、傷付けておいてその自覚を持たない人は質が悪い。

人間同士の付き合いに於いて、別れの時はある程度フィフティフィフティなのだと思っている。

どちらが正しいとかどちらが間違っているということを追求するから、「恨み」に発展してしまうのではないだろうか。

何気ないところからふと出会いがやってくるように、別れもまた何気ないものなのだと思う。

避けては通れないものなのだ。

だから、分かり易く言うと、「恨みっこなし」と云うことになる。

何時までも恨まれるのもシンドイが、何時までも恨む方もシンドイだろう。

フィフティフィフティ、お互い様、という概念は人や自分を許すことに繋がる。

そうすることで楽になれると思っているのは私だけだろうか。

また、フィフティフィフティには仲直りの可能性も含まれている。

お互いが、自分に対して「相手を傷つけてしまったよな」と云う気持ちを持っていれば、いつかどこかでバッタリ会っても「あの時はゴメンね」と素直に言えるのではないだろうか。

どちらか一方が怒りの沸点に達していたとしてもだ。

お互いにカーッとなってしまったことを詫びる気持ちが芽生えるのではないだろうか。

最近は別れが訪れた時、とにかくこじれないようにと考えるようになった。

つまり、相手を責める前に私にも悪いところが無かったかどうか胸に手を当ててみるということだ。

確かにその人の本性が見えて、こりゃ付き合いきれないなと思ってこちらから身を引くことはある。

それはもうどうしようもないことでもある。

我慢して付き合いしている必要はない。

ただ、私の場合身の引き方に問題があるのではないかと思う。

かといって、私と云う人間は一人しかいないので、付き合いできる人数も限られてくる。

課題とはいえ、難しい問題でもある。

では、ハッキリと「アナタとはお付き合いできません」みたいなことを言えばいいのだろうか。

それもちょっと違うような気がするが。

 

ここでまた途中だったドアーズを流す。

ジムモリソンの歌声とドアーズのサウンドはとても心地よい。

先日友人に若い頃の写真を見せたら「美人だったんだね」と言われた。

信頼している友人だから見せたのだが、同じことを他の人に言われたらショックを受けていたかも知れない。

とは云うものの、私も昔の写真を見て、あの頃に戻りたいと思った。

しかし、当時は自分が何のために生きているのかがわからなかった。

今でも不明な点は多々あるが、音楽と酒、パソコンと煙草と云うシンプルなものがあれば生きて行ける。

気付いたら、ブラックサバスの『パラノイド』に変わっていた。

よし、新作の構成を練ろう。

 

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)