私は文章を書いている時、何者かに監視されているような感覚を持ち続けている。
それは先生のような存在で、師匠のような存在で、厳しいファンのような存在だったりする。
誤字脱字などという安易なことではない。
わかり易く言えば、その文章を書く意味はあるのかどうか。
また、発信する場所はそこで合っているのかどうか。
人を絶望させる文章になってはいないか。
そんなことを常に見張られているような気がするのである。
実際、私には師匠のような存在はいない。
漢字や誤字脱字を教えてくれた人はいたが、師匠ではない。
背中を追いかけたくなる人をずっと探している。
教えてくれる先生を求めているわけではない。
この人のようになりたいなと思える人だ。
これは以前から何度も何度も言い続けてきたことなのだが、技術とか才能とか実力のことを言っているのではない。
やはり人間性なのだと思う。
人間性だけで言うならば、私の周りには良き大人が数名いるが、文学に精通しているわけではない。
そう考えると、背中を追いかけたくなる存在と云うのは実に難しい。
読書量が足りない、ジャンルが偏っていると云うのも原因の一つだ。
だから見つからないのかも知れない。
これでも精一杯読書するようにしているが、文章を書いている時間の方が圧倒的に長い。
スラスラ書ければそれに越したことはないが、何を書けばいいか考えている時間もまた、長い。
一応、推敲もしている。
今日はこのテーマで書こうと思って書き始めても、途中で挫折して頭から書き直すこともザラだ。
今読んでいる『村上龍文学的エッセイ集』を読破したら、村上龍氏に手紙を書いて私の本『破壊から再生へ』を送ろうと思っている。
彼のエッセイ集の感想を交え、私の本の概要を入れたものを書こうと思っている。
彼に手紙を書くのはこれで三回目となる。
果たして、私の本を読んでくれるだろうか。
話は戻るが、村上龍氏のことは二十年以上前からファンなのだ。
一体どうすれば村上龍氏のようになれるのかと漠然と考えたこともあるが、ただ一つ、「訓練」することだと書いてあった。
「訓練」と云う言葉を聞いて、私は背筋が続々して鼓動が高鳴った。
何故ならその言葉が大好きだからだ。
子供の頃はピアノの訓練をしていた。
その習慣が身について、毎日何かに取り組むということが当たり前になっている。
今で云うと、それは文章を書くことに繋がっていると思う。
毎日やっていて疲れないの?と訊かれることがあるが、疲れない。
好きなことを毎日訓練しているわけだから、全く苦ではない。
内容に関しては、読者が何を求めているのかわからないので、自分が思ったことや感じたことを日記のようなエッセイという形で書き殴っている。
まだ三十六歳くらいの頃、この仕事は一生続けなさいととある著名な方から言われた。
必ず芽が出るからやめてはならないと。
但し、貴女は感性のみで仕事をしているから技術を身に付けなさいと付け加えられた。
創造力の限界を救ってくれるのは技術だけだと。
日々の訓練により、技術は磨かれていくものだと思っている。
しかし、先にも述べたように背中を追いかけたくなる誰かがいるといないでは大違いなのではないだろうか。
かといってサークル的なものには入りたくない。
お互いに刺激し合っていいのかも知れないが、私は何かに属するということは不向きだ。
憧れの存在に出会えればいいなと常々思っている。
人間的にも良い人であれば尚のこと、刺激をもらって水を得た魚のように何かがまた書けるかも知れない。
これも何度も言っているが、此処は私にとっての文章を書く練習台に過ぎない。
良い本が書けるための練習台。
だから毎日訓練しているのだ。