nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

なんだか憐れになってくる話

私、なんとかなりそう。

能天気かも知れないが、強風の中自宅に帰ってきて自室に籠っていたら携帯に着信があってそう思った。

何故なら仕事の相談相手が現れたからだ。

最近よく鳴るこの携帯電話だが、朗報が続いている。

まだまだ諦めるには三十年早いと思わせてくれるような出来事が、本当にここ最近多い。

春のせいだろうか。。。

それとも私が孤軍奮闘しているのが伝わるのだろうか。

もうこうなったら行動あるのみ。

今年の私の目標はとにかく稼ぐこと。

金が全てではないが、金が無いとできないこともある。

できることなら、もっと貯蓄したいと考えている。

また、金が無くてできないことは諦めずに済むようにしたい。

本当はまつエクへ通ったり、スポーツジムへ通ったりしたい。

勿論、時間との闘いなのだが、新作を書き終えて校正が終われば幾らか暇になる。

そうなった時に、稼ぐも良し、やりたいことをやるも良しだ。

ちょっと先の話になるが、今年の秋はゆとりのある生活を送りたいので今の内にやれることはやってしまいたいと思っている。

 

 

ところでマスクをするようになってから、化粧する機会が減ったように思う。

これは私だけではないはずだ。

それなのに誰にも見られることもないのにペディキュアを塗るのは、女であることを捨てたくないという微かな希望のようなものでもある。

私はタイピングをする際爪が邪魔なタイプなのでマニキュアは塗らないし、少しでも伸びたら切ってしまう。

それともう一つ、長い間ブルーカラーガールだったが故、ネイル無しの手の方が美しいのではないかと思ってしまうのだ。

生命力や逞しさを感じることができるからだ。

決して面倒臭いわけではないが、私にネイルは似合わないと思っている。

ネイルサロンに通っている女は凄いとは思っている。

女性の赤いネイルとか、同姓の私でも見ていてドキドキする。

だけど、私はペディキュアだけで十分だ。

飾りっ気のない美しさと言おうか、所謂一つの私にとっての美学である。

化粧もゴテゴテしているよりは、薄化粧の方がセクシーに見える。

限りなく「素」に近いからだと思う。

私はその代わり沢山の指輪を嵌めている。

金属アレルギーなので、シルバーリングしか嵌められないのだが、若い頃男に買ってもらった指輪を今だに身に付けている。

勿論未練なんて全くないのだが、気に入り過ぎて捨てられない。

そう、物に罪はない。

 

話はペディキュアに戻る。

どうしてマスクをしているからと云って化粧をしないのに、誰にも見られないペディキュアを念入りに塗るのだろうか。

たぶん、まだ自分は女であると思い込みたい、若しくは安心したいのだと思う。

夏場は人に見られるからペディキュアを塗るが、冬場は塗らないという女は多いと思う。

だけど私は冬場こそ念入りにペディキュアを塗る。

これはいつか私も女を取り戻してやるぞという意気込みのように感じる。

結婚して自由に働けなくなって、身に付けるものも思うように買えなくなった。

でも足の指に塗るマニキュアくらいは持っている。

なんだか泣けてこないか?

世に居る男達は、こういう健気な女を何故放っておくのか私にはわからない。
ペディキュアは救いを求める象徴のような気がする。

誰にも見られることはないのに、世に居る男達に必死にアピールしているようにも見える。

私はこの話が自分でとても憐れだと思ってしまう。

私に文章構成の技術があれば、一つの物語にでもなりそうな話だ。

こういう女を抱く男は、まるで白馬の王子様なんだろうな。

たとえ、それが男の単なる下心だけだったとしても。

女に対して「女の生命」を吹き込んであげた者としてヒーローみたいになるんだろうな。

男と女の恋愛に於いて、そういう始まり方も私は素敵だと思う。

結局、女は女扱いされてなんぼ。

男は女を女にしてなんぼだろう。

なんだか憐れで泣きたくなる話だ、全く。

 

 

破壊から再生へ

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  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)