これは不毛の愛でしかないということを身に沁みて感じた。
お互いがこの結婚について、「こんなはずじゃなかった!」と思っているのである。
詳細については割愛するが、どこまで行っても平行線。
会話もなく、無難に過ごすことは可能かも知れないが、私が求めているものはもっともっと崇高な愛だ。
お互いを尊重し、信頼し、心配し合って、励まし合う。
そう云う関係性を築けないのであれば、このままこの関係を続けていても無意味であると云うことがハッキリとわかってしまった。
ここにいれば家賃が掛からないという考えは、私の言葉の端々に出てしまっているのだろう。
また、相手の私に対する愛が上辺だけだと云うことも態度を見ていれば歴然だ。
表面上は可愛がっているが、殆どのことが他人事。
このままでは夫婦として成立しない。
怒りよりも悲しみが出て来てしまった。
不毛の愛に耐えられるほど私は強くない。
いや、不毛の愛にすがるほど私は惨めではない。
働いて、生活費を捻出すれば済む話。
バイトが決まらないのではなく、決まらない仕事に応募しているだけなのかも知れない。
と云うのも、私には相応しい仕事と云うものがあるのにそれが何なのかがわからない。
金さえ稼げればいいやと云う考え方は捨てた方がいいのかも。
もういい歳なんだから、「これだ!」と云う仕事を見つけなくては。
とある人はこう仰っていた。
きっとバイトが決まらないのは執筆に集中しろという天の啓示だと。
確かにそうかも知れない。
今回も校正は大掛かりになりそうだし、まだ執筆も終わらない。
どうせ年内は動けないのだから、発売を予定している十月までは徹底的に新作制作に力を注ぎ、仕事はそれからでも遅くはないかも知れない。
結婚や恋愛もそうだが、仕事もタイミングなのだろう。
別れにもまたタイミングがあるのだと思う。
別れの前触れとしては、必ず出会いがあるものだ。
私くらいの年齢になると、もしかしたらこの出会いの先には別れがあるかも知れないなと予感することがある。
大抵、そういうのって当たるものだ。
当たり前のことを書くが、運命を大きく変えるためには大きなものを手放さなければならない。
手放していいものなのか、将又しがみついてでもくっついていなければならないものなのかはもういい加減判断できるだろう。
たぶん、答えは出ているし、運命はもう既に変わっている。
そう、大手出版社と遣り取りを始め、一冊の本を世に送り出すことができた時点で運命は変わったのだ。
この流れは、誰かに止められるものではない。
要は波は押し寄せてきているので、それに乗っかる必要があるということだ。
日々を大切に生きていれば、『ロックンローラー』の執筆をしながらコツコツ稼ぎ、十月には発表できることだろう。
ゴールデンウィークに入っても、一日一日と前進しているような実感がある。
ことごとくバイトが決まらないことで、何かが吹っ切れたのかも知れない。
年内に動くのは難しいが、来年には大きな変化があるだろう。
そしてせっかく旦那が揃えたキャンプ道具だが、もう二人で一緒に行くことはないような気がした。
この大変なご時世に、様々なことが私の中で入れ替わる。
しかしそれは大きな意味で捉えれば、全てプラスに転じるだろう。
絶対に間違った方向へは行かない。
結果オーライならばいいのである。
誰かが言っていたじゃないか。
改革には痛みが伴うって。
痛くも痒くもないと言ったら嘘になる。
だけど歩き続けたその先にもっともっと壮大なものが待っているような気がしてならないのだ。
苦労するかも知れないが、考えながら歩いているうちに視界がパーッと晴れてくるのではないだろうか。
不毛の愛を続けていても悲しくて虚しいだけだ。
真実の愛を手にしてこそ、説得力が増す。
泣きながらでも前に進むべきだ。