nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

孤独感と闘っていたとしても

自分が変われば取り巻く環境が変わる。

付き合う人も変われば、心開ける存在も変わっていく。

それは自分が立っている次元に関係するのではないだろうか。

あまり時間がないので、書けるところまで一気に書いてみる。

最近私が想うのは、自分の本質を表に出せば出すほど離れて行く人がいるということだ。

例えば、私は魂の衝突によって己を成長させ、小さなことでクヨクヨしなくなったとする。

今までは小さなことでクヨクヨし合っている人と同じ次元にいたのだが、私は次のステージに到達したとする。

すると、一緒にクヨクヨしていた人からしたら、裏切られた気持ちになるのだろう。

あの人は変わった、もうわからない。。。となってしまうのだ。

そうして私から気持ちが離れて行くのである。

一緒にクヨクヨしてくれなくなったからだ。

この場合、どちらも悪くないと思うのは私だけだろうか?

クヨクヨし続けている人も、クヨクヨしなくなった私も、裏切ったり傷付けたりしたわけではない。

ただ単に、立っている次元が変わってしまっただけに過ぎない。

 

私ならこのように理解を示す。

「あの人はクヨクヨしていたけれど、本当はとてもポジティブな人だったんだ!私も見習わなくちゃ」

しかし、私から離れて行く相手はそのようには理解しなかった。

「なんだか自分だけ取り残されたようで寂しいな」

そしてまた、クヨクヨするのである。

 

人間はポジティブ思考ばかりでもダメだし、かといってネガティブ思考だけでは幸せになれない。

両方を併せ持っているのが人間なのだから、それぞれの良い部分を認識して受け入れなければならない。

上記に書いた、クヨクヨし続けている人はネガティブ思考の典型だと私は見ている。

私がクヨクヨしていたのはメンタルが弱っていたせいで、本来はとてもポジティブ思考で理性的であるとは受け取ってくれなかったわけだ。

人間同士って云うのは、魂の成長の速度のズレから波長が合わなくなってしまうものなのかも知れない。

 

でも魂の成長を続けている者は決して孤独になることはない。

新しい次元へ到達した時、今度はその時の自分に相応しい人が集まってくる。

簡単に言えば、類は友を呼ぶとはそういうことだ。

つまり、自分を信じるということは、己を貫き通すということに繋がるのだ。

私だって本当は人が離れて行くのは寂しい。

だけど急ピッチで成長しようとしていると、一時的な孤独感や孤立感は免れないものと思っている。

最近、そんな孤独感を感じることが多々ある。

いつでも変わらぬ愛を注いでくれる大事な仲間はいるのだが、漠然とした感情は誤魔化しきれない。

よく面接で、会社の退社理由を聞かれることがあると思う。

それは私から言わせれば、魂が成長し、その会社から学ぶべきことを終え、次のステージへ移行するための退職と云うのが殆どだと思う。

費やす期間が、長かったり短かったりするのは、与えられた任務の難易度に依るものではないだろうか。

しかし、面接でそれを聞かれてそのまま答えることは難しいので、私は新しいことにチャレンジするため、と答えている。

一つの会社に留まり続ける人は、それはそれで運命だ。

私のように、自分の中にある達成感と共に転職を繰り返す人もまた、そういう人生を歩むようにと定められたのだろう。

転職を繰り返していると、友達とも疎遠になり易い。

況してや、転居を伴っていると尚のことだ。

それでも私の中では魂を磨き続けたい気持ちが強く、より理解し合える心の友を探している節があるので、歩調は誰にも合わせない。

故に、度々孤独感に襲われるのは仕方のないこと。

ただ、そのような気持ちを抱いている時は、文章を書くということに身を投じるので、執筆が進む。

説明し難い孤独感と闘いながらも、私は周囲を観察して文章を書いてきた。

いつまで本を書き続けるのかわからないが、残すべきものは残したい。

そう思っている。

 

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)