nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

健気さが必要なのではないか?

現在新作『ロックンローラー』を執筆中なのだが、人間にとって最も必要なものは健気さなのではないかとつくづく実感する。

健気とは、心の持ちようが立派なさまのこと。 

主に女性や子供など、力の弱いものが、困難な状況で立派に振る舞っているのを褒めてあげたいような時に使われる言葉だ。

健気さは誰しもが持っているものではないように思う。

傍から見れば、奴隷のように見られがちな生き方は、批判の対象になり易い。

自分の人生を生きなさい、自分をもっと大切にしなさいと。

しかし健気さを持っている人と云うのは、自分の心を大切にしているからこそ健気に生きることに徹しているのである。

自分の中にある溢れんばかりの愛情と優しさ、正義感と人類愛を頑なに守ろうとしているのだ。

世の中にいる多くの人は健気さを理解していないように思うのは私だけだろうか。

例えば、ダメな旦那に苦労しながらも旦那に気を配り寂しい想いをさせないように元気で明るく振る舞っているような私は馬鹿にされる。

クソミソに言われているのにどうしてそこまで旦那に従順でいられるのか?と多くの人が疑問を感じ、攻撃の対象を旦那そのものよりも私に向けるようになる。

気が弱いから別れられないとか、経済力がないからだとか、自分の意志を持っていないからだとか、様々な批判が飛び交う。

それでも批判に負けず、自分を貫いているのは心の中にある健気さを頑なに守ろうとしている証拠。

健気でいることに対して、損得の意識は捨てなければならない。

損も得も、本来この世には無いものだと思っている。

それよりも大事なことは、自分の中にある崇高な汚れなき心を守ることだと私は思う。

誰しもが健気になれるわけではない。

一見すると、非常に損な生き方をしているように見えるが、健気な人にとっては損ではないのだ。

当たり前のことをしているだけに過ぎない。

困難に直面した時、周りに振り回されることなく気丈に立ち振る舞うことは、渡世術でもある。

付き合う人は選び、良い人だけを周りに置き、心地良い環境を作って生きることは非常に大事かも知れない。

しかし、苦手な人や手に負えない人と接することから避けられないこともあるだろう。

 

職場などは非常に分かり易い例だと思う。

嫌な職場は辞めればそれで済むのだが、嫌なヤツって云うのはどこにでもいるものではないだろうか。

そんな時、自分の中に健気さを持っている人は強い。

困難な状況に置かれても、自分の仕事を全うし、気丈に振る舞うことができ、常に平等精神を持って冷静でいられる人は人間関係で悩むことが少ない。

何度も言うが、根底にあるのは健気さである。

勿論、中にはどうしようもなく手強い相手がいて、ストレスの原因になることもある。

この人さえいなければ全ては円滑に運ぶのにと思ってしまうこともある。

それでも必要なのは、その人を嫌う前に健気な気持ちになってみることではないだろうか。

忍耐の力を発揮して、その人が消えて行くのを見届けるまでに至るかも知れない。

 

私のように、結婚生活に於いて、何故そんな奴といつまでも一緒にいるのかと疑問を持たれるケースだって多々あると思う。

決断力のなさを指摘されることだってある。

しかし、健気さは時に人類愛を運んでくる。

わかり易く言えば、どんな相手とでも上手くやって行けるようになるのだ。

例えば、挨拶を知らない人には健気に挨拶し続ける。

そのうち、向こうから心を開いてくるようになるだろう。

健気さは、困難であればあるほど発揮される心の在り方だと思っている。

全ての人には大なり小なり愛があって、健気に接せられると嬉しいものだ。

私の場合は、今の旦那と上手くやって行けないようじゃ、他の誰とも上手く行かないだろうと思っている。

旦那に対して健気に接していることは、ある意味自分を貫き、自分を鍛えていることに繋がっているのである。

ここまで書けば、私の心意気は伝わるだろうか?

 

 

破壊から再生へ

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  • 作者:橋岡 蓮
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