橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

愛を知らず物に執着する人

面接を終えてベローチェで結果の連絡待ちをしている。

予定ではあと一時間くらいで電話が鳴るはずだ。
かれこれ二時間以上ここに滞在している。
スマホで文章を書くのは苦手なのだが、暇つぶしにこれを書いてしまおう。
 
最近、身近な人を観察していて思うことがある。
結局人生に於いて愛というものを体験したことがない人ほど私利私欲に走り易いのではないだろうか。
人のために魂を捧げるということがわからないからだろう。
そういう人はとても寂しいはずだ。
いや、寧ろ寂しさの感覚すら持っていないかも知れない。
片想いだっていい。
自分以外の誰かの幸せを願ったことがあるかないかで人生は大きく左右される。
 
愛を知らない人と一緒にいると、滑稽に映ることが多々ある。
例えばバイクなどの贅沢品を手放し、自分に夢がないのならパートナーの夢を応援すればいいのにと思う。
それができず物にしがみつくのは、愛し方を知らないからだと思う。
腹の中で、人間は裏切るけど物は裏切らないと決めつけている。
だから物は大事にするのに、人を大事にしないのだと思う。
 
私としては、勿体無いなと思ってしまうのだ。
寂しさを埋めるために物だけを身の回りに置き、人のために生きることができない。
そりゃ、相手の気持ちは離れて行って当然だろう。
自分が物以下の存在でしかないことは、見抜けてしまうからだ。
しかし、そういう人に愛を教えるのは並大抵ではない。
何故なら根本的に人を信頼することを知らないからだ。
無償の愛なんて死んでもわからないだろう。
そういう人からは、皆が離れて行く。
すると孤独になるから益々物しか信じられなくなる。
何のためにパートナーがいるのか、本当にわからない人が多い。
 
私の場合にも同じことが言える。
私は根本的に信頼されておらず、相手にとってはバイクの方が大切な存在であることがわかってしまう。
今ではもうそういうものだと諦めているが、自分のパートナーが愛を知らない人だと知った時はショックだった。
どうして生活が苦しく、自分の給料ではやって行けないのに贅沢品であるバイクを手放そうとしないのかわからなかった。
しかし、愛を知らず、物に執着する人だとわかった時、責める気持ちは消えた。
きっと一生こうやって、人を信頼できないまま生きていくんだろうと思った。
 
勿論、一時は愛というものを教えようとしたこともある。
それは、無残に終わった。
確かに良いところも沢山あるのだが、全ては表面上でしかないことが私にはわかる。
本心は私に出て行って欲しくはないのだろう。
しかし、愛し方を知らないので、私の心を満たすことができないのだ。
たぶん、人を大事にする人間だったら、私も一緒にいてここまで寂しい気持ちにはならなかっただろう。
まぁ、それにも慣れてしまい、耐えられないというレベルではなくなってしまった。
 
その代わり、私は理解や共感などは家の外に求めるようになった。
お陰で少ない仲間を大切にするようになり、彼ら彼女らとの関係や絆は深まりつつある。
今までずっと抱いていた泣きたいくらいの寂しさというものからも解放された。
やはり私はどこまで行っても人間の愛を求める。
それは私が幼少期に祖父母から与えられたものであり、二十歳の時出会ったとある男から教えてもらったものの影響だ。
今後、私が誰かに無償の愛を注ぐことができれば最高だよなと思う。
愛されるより愛することに重きを感じている。
愛することができる人は、自然と愛されるものだと思っているからだ。
ベローチェを流れるちょっぴりセンチメンタルなBGMを聴きながらそんなことを考えた。
愛を知らない人と一緒にいることは、単純に寂しいと云うことだ。
きっと誰も悪くはない、そんな風には思っているのだが。
よりによって、私自身、少々寂しさに敏感だから余計そう感じるのかも知れない。
 

 

破壊から再生へ

破壊から再生へ

  • 作者:橋岡 蓮
  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)