フージーズを聴きながらこれを書くことにする。
何故気分が落ち込み気味なのかはわからない。
私の身の周りに落ち込む要因となるものは何もないからだ。
散々書いているように、街が破綻していることはきっかけに過ぎず、もっと大切な原因が隠されているはずだ。
たぶん、これは成長過程の一環に過ぎないことはわかっている。
しかし、『ロックンローラー』という、絶望の先には希望があるんだ!と問うている作品を書くに当たって、私がこんな状態でいいのだろうかという一種の不安のようなものに支配されていることは事実だ。
このままじゃダメだと思えば思うほど、どつぼにハマる。
鬱状態なのではないか?と心配してくれる方もいる。
しかし、先行き不透明な状況にいる者を「鬱」と一括りにしてはならない。
人間は本来、「迷い」を持つことは当然のこと。
迷いを知らない者は、現状に満足している者だけではないだろうか。
きっとそういう人は幸せなのだろう。
かといって私が不幸せと言っているわけではない。
私なんかは非常に恵まれていると思う。
そう感じるのは何故か。
一言で表現するならば、人に恵まれているということだ。
私は彼等彼女等のことを「ツワモノ」と呼んでいる。
ツワモノと呼べる方々が、私のことを応援してくださっている。
必然的に引き寄せられたように、私のことを囲んでくれている。
それなのに、何故私は方向性を見失うのだろうか。
それは、目指す位置が今よりもっともっと高いからだろう。
名誉とか地位とか、そう云うものではない。
愛の形に貪欲だと言えばいいのかも知れない。
例えば、人と人が愛し合うという次元はこんなものではないと常に思っている私は、現状に満足しないのである。
何故ならもっと深い愛を知っているからだ。
人を好きになるということはどういうことなのか。
それを知っているが故、未来に対して貪欲なのだ。
つまり、私が知っている過去の愛を超えるような愛を望んでいるということだ。
一度愛するということを知ってしまった者は愛に貪欲だと思う。
愛した者と共に生きている場合はいい。
しかし、様々な事情で別れた場合、人を愛するということはどういうことなのかを考え続けるだろう。
過去にしがみついて生きるわけにも行かないし、妥協で生きるわけにも行かない。
やはり過去を超えるような愛を求めてしまうものなのではないだろうか。
私は見返りを求めない無償の愛と云うものを若くして知ってしまったので、今の結婚生活と比べてしまうのだ。
相手云々ではない。
人を愛するってこんなもんじゃないよなって。
あ~話を変えよう。
先日の講演会の話をしなければならない。
かなり早めに家を出たのだが、やはり東新宿までは遠かった。
ただ早めに目的地に着きそうだったので、駅前の煙草が吸える喫茶店に寄った。
草加のドトールに比べ、百円高いかなと云ったところだったが、珈琲を飲みながら席で煙草が吸えるなんて流石新宿だと思った。
そこで二本ほど吸ってから、会場へ向かった。
私がたまにしか新宿へ行かないからだと思うが、とても美しく映った。
会場に着くまでも、会場でも一切緊張していなかったと云うのに、本番になったらダメだった。
台本を作って行ったのに、途中から自分の台本の稚拙さに気付いてしまって居ても立っても居られない状態になってしまった。
顔から火が出るとはこういうことを言うのだろう。
ガタガタ震えて、声もまともに出なくなってしまった。
しかし、本は皆さん買ってくださった。
私の力ではなく、主催者である司会進行をしてくださった方のお陰だと思うが、皆さんのお手元に本をお届けできて良かった。
帰りは緊急事態宣言下の東京でも、蔓延防止措置下の埼玉でもどこでも飯が食えず、西友というスーパーでお惣菜を買って帰った。
ただ、帰宅してから飲んだビールは格別だった。
これで新宿で飲めたら、ぶらぶらしながらご飯食べてビール飲んでから帰ったんだけどな~。