一つの問いを投げ掛けられた。
「何のためなら死ねるか」
私は約一分考えて、即答した。
「書くためなら死ねる」と。
書くためにはどうすればいいかと云うのが全ての判断基準になっている。
私が文章を書き始めたのは十年前。
もうその頃から他の全てを犠牲にしながら書くことを優先してきた。
一円にもならないようなことにとにかく必死だった。
家賃光熱費と酒と煙草のために働くけれども、他は書くために注いでいた。
もしかしたら私は昔からそのような志を持って生きていたのかも知れない。
正社員になることを捨て、企業に属することを捨て、自らの幸福をも捨て書くことに専念してきた。
今だから書こう!
私は『ロックンローラー』を書き終えたら何も書けなくなるのではないかという多大な不安に陥ったことがある。
その時私の中には「死」の概念が芽生えた。
書けなくなったら生きている意味がない、そう思ったのである。
親しい友人に、「死」の概念に囚われていることを話してみた。
しかし、それは人間にとって必要なもので、あって当然なんだと云うような答えを戴いた。
死の概念を忘れてしまったのが現代人なんだと。
そっかぁ~。
それでも尚、私の中から死の概念は消えなかった。
私は書くために生きているのであって、書けなくなったらこの世にいる意味がない。
『ロックンローラー』で完全燃焼したら、燃え尽き症候群になったように細々とエッセイなどを書いて行くのかと思ったら死にたくなったのだ。
それと同時に世の中がどんどん不自由になり、私が愛している酒や煙草が嗜めなくなり、やってられるか!という気持ちになった。
志とは囚われと似ているのかも知れない。
でも似ているようで違う。
人生のてっぺんに「書くためなら死ねる」と云うことを置いておき、書くためにはどうすればいいかを考えて自由に身の振り方を決める。
私が不満ばかり言いながらもなかなか別れようとしないのは、書くためでもある。
これより先に行くためには孤独になった方がいいだろうと判断した時が別れる時だと思う。
私は書くためなら不運も孤独も受け入れる。
どこまで行けるかわからないが、生涯かけて書き続けることこそ私の人生だということだ。
子供の頃、勉強も運動も中途半端だった私だが、作文だけは少し人より上手くできた。
だからといって、文学部を目指したりしなかった。
過酷な状況下での「上京」を果たしたのち、ある日突然書くことに目覚めたのが三十一歳。
当時念頭にあったのは、死ぬまでに自叙伝的な文章を残すということ。
それは人生の目的だった。
どんなことがあっても目的はブレることがなかった。
問題はこれから先の目的だ。
それさえあれば、死の概念を抱きながらも、目的に向かって生命を完全燃焼することができるだろう。
目先のことだけ考えるならば『ロックンローラー』が最大の目的だ。
目標ではない、あくまでも目的だ。
目的とは、最終的に成し遂げようと目指す到達点を指す。
目標はそれに至るまでの手段だ。
ね?『ロックンローラー』が完成したら、私は生きる意味を見失うでしょ?
編集・校正のスキルを磨き、エッセイでも書きながら余生を過ごすと云うのもアリかも知れないが、なんか違う!
「死」と云うものは待ち侘びるものかも知れない。
生きている限り書き続けると考えるとゾッとする。
書くのを止めたら、私は楽になるのだろうか?
それとも腑抜けになり、目的を見失って、酒を煽っているのだろうか?
私みたいな人間には、生きてさえいればいいという概念は通用しない。
死んだ婆ちゃんは、人間普通が一番!と言っていた。
父方の叔母は、テレビ観て笑って美味しいもの食べるのが幸せ!と言っていた。
私は多くの人から、何が楽しくて生きているの?と訊かれる。
やはり書くことに囚われているのだろうか。