橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

人間は一人では生きられない

人間が耐えられる痛みって云うのは、個人差があると思う。

例えば、私の場合で話をしてみよう。

私の根深い闇のようなものは、幼少期だけではない。

社会に出てから、バタクソに鍛えられてきた。

かといって鋼のようになったかと訊かれれば、そうじゃないと答える。

精神を病み、肉体は滅びに向かっている。

だけど何故私が生きてこられたか。

ここが問題だ。

大人達から虐げられようが、出る杭は打たれようが、曲がらずにブレずにここまで来られたのは「恩」を知っているからだ。

これは非常に大事なことだ。

「恩」って云うのは、イコール「愛」でもある。

 

もっと簡単に私なりに説明しよう。

私は「恩」を大事にするタイプだ。

かといって、世話になった全ての人に恩返しできるわけではない。

でも、あの人のお陰、この人のお陰で今の自分があるという感覚は持っている。

一番は両親の代わりに愛情を注いでくれた、母方の祖父母である。

幼少時代、優しくもあり厳しくもあった祖父母のお陰で私は捻くれたりすることがなかった。

祖父母と別れたのは五歳の頃。

それからは弟の存在が私にとってかけがえのないものとなる。

弟がいたお陰で、私は横道に逸れても何度でも復活することができた。

私を精神的に支えてくれた弟に迷惑を掛けてはならないという「愛」が私の中にあった。

それを言い換えれば、弟への「恩」だ。

私と弟は、同じ泥水の中を手を繋いで渡ってきた同士だからだ。

 

私は十六歳で泥水に耐えられず親元を離れることになるのだが、弟を連れて出て行くことはできなかった。

弟は私に裏切られたと思ったようだ。

それが私を一生苦しめる傷となっているのだが、実家を飛び出してからも心の中にはいつも弟がいた。

一番大切な人は誰か?と訊かれれば、弟ですと答える。

弟はとっくの当に私の存在などどうでもよくなっている。

でも、私には弟への「恩」があるのだ。

過酷な家庭環境の中で、いつも傍にいてくれた唯一無二の存在。

況してや、めちゃくちゃ可愛かったので私は弟を溺愛していた。

今は結婚して北千住で平和に暮らしているとのこと。

だから私は自由に生きられるわけだ。

「恩」を感じている人の殆どが平和に暮らしているからこそ、私は捨てるものが無いと言って自分の好きなように生きられる。

 

回りくどくなってしまったが、「恩」を感じることができない人は、自分を含めて誰かを愛したりすることはできないのではないだろうか。

私ぐらいになると、一度酒を飲み交わしただけでもその人に「恩」を感じてしまう。

仕事が絡むと余計にそうだ。

「恩」があるからこそその人のプライドを守ろうとする。

人間は一人では生きられないし、何かを乗り越えたり達成したりすることは誰かのお陰である。

それに気付かずに己の努力だと勘違いしている人も中にはいる。

自己評価が高いのは良いことだが、自惚れになってはならない。

だけどこれは絶望の淵に落っこちたことがある人じゃないと、本気で理解しないかも知れない。

何故なら、絶望から這い上がると云うのは自力でどうにかできるものではないからだ。

私のようにどこにも属さずに生きていると、それを痛感する。

如何に自分がちっぽけで無力で無知かということがわかるのだ。

だからこそ「恩」と云うものを理解していないと、とっくに世の中から弾かれて居場所がなくなってしまうのだ。

 

これでもかなり優しく書いているが、もっとはっきり言うならば、「恩」もわからん人間は滅びるしか無いということだ。

誰も助けてくれはしないのだから。

私だってそうだ。

仲間はいても、仲間は応援することしかできないということを知っている。

金や保証人など頼ってはならないし、頼りたくても誰も何もできない。

結局人間は一人なのだ。

人間は一人では生きられない。

しかし、人間は一人なのだ。

それを肝に銘じておかないと、世の中が解散したら生き残れなくなる。

生き方を知らないからだ。

人間は一人ぼっちの生き物だからこそ、「恩」とか「愛」を大事にしなければならない。

私はそのように解釈している。

伝わっただろうか?