nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

頼らずに支え合うということ

私には失うものが一つもない。

旦那はいるが、旦那は私がいなくなっても一人で生きて行けるタイプだ。

三年間連れ添った私がそう思うのだから間違いない。

私が大切に想っている弟も家族を作り幸せに暮らしている。

愛犬も天国へ行ってしまった今、完全に私は自由。

自由なのはいいが、失うものがない人ははっきり言って危うい。

それを強さと勘違いしている人が多いのだが、強さではない。

 

私の場合は四十年間かけて、様々な人間関係や過去を「清算」してきた。

簡単に言えば、私に群がる人々の私に対する愛が本物かどうかを見極めるために、金もないのに日本中を放浪していたということだ。

『破壊から再生へ』の帯には、「故郷も捨て、家族も捨て。。。」などと書いてあるが、ポイと捨てたわけではない。

苦しんで、苦しみぬいた結果、本当に自分にとって必要なのかどうなのかを見極めただけだ。

見極めるために、彼ら彼女らと色んな話をしたし、何度も会いに行った。

時には職を捨ててでも、見極めようとした。

だから転々としていたのだ。

 

もっと分かり易く言うならば、各地に友達がいたわけだ。

皆が口を揃えてこう言った。

 

「蓮ちゃん、お願いだから帰ってきて!」

 

そんなこと各地の友達から言われたら困惑して悩むのが人間じゃないかい?

私は多くの人から必要とされていると思い、戸惑いながら何度も足を運んだ。

ところがある時、驚愕の事実に気付いてしまったのだ。

どうして私ばかりあっちへ行き、こっちへ行き、ジムニーに乗って走り回っているのだろうかと。

蓮ちゃん、蓮ちゃんと言う割りには、誰も私の家に遊びに来ないじゃないか。

その時ハッキリ気付いたのである。

各々にとって、私が近くにいた方が都合がいいから「帰ってきて!」などと言っていると云うことに。

例えば、私と一緒にいることによってジムニーでどこかへ連れて行ってもらえるとか、ペットの世話をしてもらえるとか、飲み会で盛り上げてもらえるとか、全部自分都合だ。

 

案の定だった。

私が命に係わる病気になった時に、責任を持って手術の同意書にサインしてくれる人が一人もいなかった。

もう言うまでもない、私は癌を通じて人間と云うものを悟ってしまった。

人間は調子のいい時はいいが、弱ったり使い物にならなったりすると簡単に捨てられる存在なのだと。

だから、全てのことは自分で責任を持たなければならないのだと。

相手のことを好きでいるなら尚のこと、その人を頼ってはいけないのだと。

 

それからは、私は「距離」と云うものを大事にするようになった。

人間同士ってのは風船のようで、握れば潰れ、手を放せば消えてゆく。

確かに今は便利な時代で、メールも電話もできるけど、壊れないようにそーっとそーっと距離を確かめながら付き合いをするようになった。

もっと謂うならば、お互いに自立していることが絶対条件であるということだ。

仕事なんてものはしていなくたっていい。

それでも何らかの手段で私に頼ることなく生きていられる人じゃないと付き合いはできないんだと思った。

ということは、私が自立できなくなったら全てを捨てる覚悟で生きていなければならないということだ。

もっともっと謂うならば、私がこの世から消えて悲しむ人はいても困る人はいない。

だから、失うものがないと断言できるのだ。

失うものと云うのは、責任を負わなければならない何かがあるかないかだ。

私にはそれがもはやないので、好きなように文章を書いて煙草を吹かしていられるわけだ。

それは強さではない。

もうこれ以上傷付きたくないという弱さかも知れない。

人間は頼っても頼られてもダメなんだとわかった。

だけど、支え合って行かなければならない。

結構、これを追求すると難しい。

一言で結論を謂うならば、見返りを求めない無償の愛だけが自分の頼りになるということなのだが。