最近暑くなってきて、尚更バテる。
身体が資本って云う言葉が身に沁みる。
何故なら、極端に疲れていると脳が働かないからだ。
さっきから、何を書こうか考えているのだが閃かない。
動画を観たり音楽を聴いたりして疲れを飛ばそうとしているのだが、却ってうるさいので、リビングで耳栓をしてパソコンに向かっている。
集中できない時は、換気扇の音すら煩わしく感じてしまうのだ。
雨の日の午後は割と集中できる。
雨音が非常に良いBGMになってくれるのだ。
私って女は、食べることより飲むことより書くことを優先している変なヤツだ。
傍から見れば、実に滑稽な生き物だと思う。
人それぞれだから尚のこと面白いのだが、私は非常に変わっている自覚はある。
しかし最近少しずつ気付いたことがある。
大なり小なり、この文章を毎日読んでくれている人達の中には「蓮さん」って云う人物像がそれぞれあるはずだ。
その人物像と、実際の「蓮さん」っていう人間は大差が無いだろうということに気付いたのである。
コメントやメッセを戴いてもそう思うし、違和感を感じない。
毎日、誤解を恐れずに書いてきたことが実ってきたのかも知れない。
正直に生きるって云うことは、誤解を恐れないということでもある。
但し、人を傷つけるようなことはダメだ。
かといって、嫌われることを恐れてはならない。
私の場合はこうだ。
「嫌われる勇気など持てないけれども、嫌われないように生きているわけではない」
これだけ色んなことを毎日毎日書いていて、嫌われてもいいはずだが、嫌われている自覚がない。
もしかしたら、知らないところで嫌われているのかも知れない。
それでも私が大切に想っている人から大事にされればそれでいいと思っている。
誤解を恐れると、逃げ腰になる。
そこには、嘘やまやかしが含まれるようになる。
本を読んだりしていると、稀に嘘が見えることがある。
作者は好感度を上げたかったのか、意図的に人々を誘導しようとしたのかはわからない。
だけど、読み手に見抜かれては全てが台無しになる。
だから私は思っていること、考えていることを正直に書く。
生意気なのはわかっていても、誤魔化すよりはマシだと思っている。
これは子供の頃から違和感を感じていたことなのだが、私は面白いと思わないことで、大勢がゲラゲラ笑っているのだ。
一体何が楽しんだろう?
その疑問は大人になった今でも消えることがない。
私の周りにいる人々って云うのは、一言で云えば「わかっている人」。
私如きより何十倍もその疑問の答えを知っている人。
簡単に云えば、類は友を呼ぶなんだけど、その他大勢ではなく限りなく少数派に属することで生きている人。
友人曰く、少数派だって集まれば、百万人にはなるのだと。
その百万人が全員私の文章や本を読んでくれたら、百万冊売れることになる。
つまり、諦めてはならないということを仰っていた。
そもそもジムニーに乗っている人だって少数派。
ARB聴いている人だって少数派。
未だにドアーズ聴いている人はもっと少数派。
だからってその他大勢に負けてはならない。
特定の誰かを頼ることもなく、集団に属することもなく、自分だけを頼りに生きること。
ある時振り返ってみたら、フォレストガンプみたいに後ろに行列ができるほど支持者がいたなんて云うのが理想。
くどいようだが、成功なんてどうでもいい。
地位も富も要らないから、こんな女が生きていたって云う証を残したいってのが私の願望。
文章は死んでも残るし、本もどこかに保管されるはず。
誰かの心の中で生き続けられれば最高!
私にとってのジムモリソンのように。