母親との問題が一気に解決すると、腑抜けになった感じがする。
今までは死ぬまでになんとかして母親と和解しなければと思いながらも、若しくは半ば諦めていた。
しかし、あっけなく片付いてしまった。
勿論、私の魂を削り、許すという精神の元、勇気を振り絞って覚悟を決めて、手紙に電話番号を書いた。
その背景にはダメで元々という気持ちもあった。
だけど手紙を送ってしまった後、かなり動揺していたのもまた事実。
プレッシャーを掛けてしまったかなぁ~と随分悩んだものだ。
しかし、あっけなく片付いてしまった。
人生最大の難関であり謎でもあった親子関係があっさり片付いてしまったことに、ぶっちゃけ私はこう思った。
「こうして人生は終わりに向かっていくのだな」
六十七歳まで苦しみ抜いた母親は、悟りの境地に辿り着いていた。
そんな母親から言われたことがある。
「ウチの家系は長生きできない家系だから、好きなことしておきなさい」
私の好きなことって何だ?
好きなことって文章を書くことと音楽を聴くことしかない。
私の場合はどこか文章を書くために生きているところがある。
成功とか、有名になるとか、文壇とか、作家とか、そういうことじゃない。
ただこうして書き続けていられれば、私は本望だと思っている。
人生四十年の中で、沢山放浪もしたし、恋愛もしたし、浴びるほど酒も飲んだし、美味い寿司も食べた。
キャンプは旦那のためにやっているだけだ。
ウチの旦那は一般的なサラリーマンで、帰ってきて酒を飲むのを楽しみに生きているような人だ。
生き甲斐とか、使命とか、課題とか、そう云うものとは無縁に生きている。
おまけに責任感とか包容力とか理解力とか、そう云うものともかけ離れている。
楽しいことだけが全てという人なので、私とは考えが大きくズレるが幸せな人なのかも知れない。
何も考えなくても、キャンプとバイクがあれば生きて行けるのだから。
だからそんな旦那のために、キャンプは付き合っているのだ。
私もキャンプは楽しいが、目的が見えない。
娯楽に目的などを追求するから、私は精神を病むのかも知れないが。
現実を忘れるために娯楽があるのかも知れないけれど。
では、何故文章を書くことに必死になっているのか。
たぶん若い頃完全燃焼したからだと思う。
勉強だけをしてこなかった。
だからこの歳になってから歴史や文学を勉強しようかと思って、勉強サークルに参加した。
こういうことをするのもこれが最後だと思う。
自分の知らない世界へ行くために、自分の知らない道を選んでみた。
だから心地の良い本ばかり読むのではなく、小難しい本も読んでみようと思ったのだ。
但し、私は何者かになりたいわけではない。
このままパン屋さんで働いて、執筆活動を続けていられればそれでいいのだが、私もやがて年を取る。
果たして、そのままでいいのか?
人生を振り返って、誰のための人生だったのだろうと考えるはずだ。
私はこの半生、誰のために生きてきたかについては『ロックンローラー』に書く。
だけど問題はこれからだ。
もしかしたら母親かも知れないし、他の誰かかも知れない。
将又、これを読んでくれている全ての人のためかも知れない。
ただ書き続けるために生きるとは、一方通行。
出会いに責任を持ち、得をしないということでもある。
わかり易く言えば、体当たりの人生であり、多くの人との友情のために生きているのだろう。
そんな小難しいことを考えている今日この頃。