すっかり酒が飲めない体質になったようだ。
特に日本酒が飲めない。
どうやら身体が受け付けないみたいだ。
理由はわからない。
疲れているのか寝不足なのか、安酒だから悪いのか。
読みたい本もあるし、いっそのことビール以外の酒は飲まないでみようかと思うくらいだ。
しかし、不眠症の私は寝つきを良くするために飲んでいると云うのもある。
少々酔いが回ってあくびが出るくらいが、一番心地良く眠れるのだ。
バイトが休みだったので、朝から晩まで活字との闘いだった。
読書して、執筆して、校正して、そのお陰ですこぶる疲れた。
だから気分転換を図るために、これを書いている。
ガチで校正を始めると、時間がどれだけあっても足りない。
読書も同様だ。
執筆は集中力や創造力の限界があって、一日中できるものではない。
中には小説家などは一日中書いているのかも知れないが、私にはそれはできない。
この文章も、大体千五百文字程度と決めている。
毎日千五百文字書くことには慣れたが、たまに物足りない時もある。
そういう時は読むのに徹する。
しかし、雨の日は集中できるようだ。
雨音しか聞こえず、良いBGMとなり、外は人通りが殆ど無いので静かだからだろう。
とても疲れているので、リラックスして書こうと思う。
私は、心から清貧の美学を重んじている。
金が無い言い訳ではない。
余分なものは要らないと考えているのだ。
友情にしたってそう。
物に関してもそう。
勿論、金に対してもそうだ。
清貧とは、富を追うことをやめようと意識するのではなく、私欲を捨てた結果として、富は必要のないものとなる。
正にこれが言いたい。
こんなことを現代社会で重んじているからこそ、蓮さんは昭和の女などと言われるのだ。
しかし、私欲を捨てることによって見えてくるものってある。
大勢の中にいては見えなかったことが、一人になってみて気付かされることもある。
友情などは目に見えないもの。
基本的に私は無償の愛で接しているのだが、相手の中に「橋岡蓮」という人間がいることがわかる人しか相手にしないのかも知れない。
分かり易く言うならば、所謂片想いみたいなことまではしないということだ。
この人は最初は興味関心を抱いてくれていたけれど、その気持ちが揺らいでしまったようだな、ということは大体わかる。
そういう人を追っても仕方がない。
私は不特定多数と浅い付き合いがしたいわけじゃない。
物や金だって一緒だ。
沢山持っていたって仕方がないと思っている。
私物は本以外あまり買わないのだが、それは必要ないからだ。
かといってショッピングの楽しさはわかっているつもりだ。
しかし、人に見せることが目的ではなく、洗い替えがあればそれでいいので服もさほど要らないのだ。
金は人に迷惑を掛けない程度に持っていれば良いと思う。
つまり、私欲が無いのだ。
だから金にもならない仕事や、安いバイトなどに遣り甲斐を感じて生きていられるわけだ。
よく、蓮さんには煌びやかな生活を送って欲しいなどとトンチンカンなことを言われるが、とんでもない話だ。
清貧と貧困は違う。
敢えて貧しさに耐えているわけではなく、私欲を捨てた結果質素な生活が染み付いているということだ。
だから私は独立自尊でいられるのだ。
清貧の美学を持っているからこそ、労働者としての誇りを持つことができる。
確かに、物質主義の社会で古臭い考え方かも知れない。
しかし、人生を生き易くするには清貧の美学を追求した方がいいのではないかと思う。
大勢と人付き合いするから、清貧でいることが難しくなる。
人目を気にするからだ。
私は読者の方は沢山いてくれるけれども、リアルで付き合いしている人は極めて少ない。
そして彼ら彼女らは、私が清貧の美学を重んじていることを知っている。
私を決して笑ったりしない。
だから片意地張らず、清貧を貫くことができるのかも知れない。
感謝せねばならないよな。