今となっては、やはり労働をしながら執筆していることが、多くの人々を納得させることに繋がっているのだと思っている。
パン屋さんの仕事は楽ではないが、コツコツと自力で稼ぎ、それを制作費用に充てると云うのは実に真っ当だ。
自分で謂うのも何だが、私には労働の美しさや眩しさを伝えることができる。
労働とは云々と語らなくたって、私が生き生きしていればそれだけで読んでいる人に伝わるものだ。
何せ、私には妙な自信がある。
それは面白い文章が書けるとか、そういうことではない。
この自信は何かと云うと、生きる姿勢である。
誰にも頼らず自力で活動していることは、たとえ無名であっても自分のことを誇らしく思うことができる。
『ロックンローラー』は、橋岡蓮をもう無名とは言わせないために書いている。
一万冊売れようが、二万冊売れようが、無名には変わりないと仰る方もいるだろう。
しかし、熱狂的な支持者がポツポツとでも現れれば、私の名前はその人々の中では偉大な存在になる。
埋もれることなく、誰かの心の中で偉大になること。
そんなに心強いことってないだろう?
これまた自分で謂うのも何だが、私がパン屋さんで働いていることに反対している人は一人もいないと思う。
私のことが嫌いな人を除いて、誰もが応援してくれている。
私は毎朝眠たくて、その日バイトがあるととても憂鬱なのだが、目には見えない読者の方々がエールを送ってくれていることを思い出して出社する。
パン屋さんで稼いだ給料と、本の印税だけは大事に取ってある。
それは全て『ロックンローラー』につぎ込むつもりだ。
皆が本を買ってくれたからこそ『ロックンローラー』は誕生する。
そう考えると、私の汗と涙の結晶と言える。
これは断言できる。
パン屋さんの仕事を始めてから、今までやっていた在宅ワークを辞めたので、収入自体は今までとあまり変わらない。
不思議なもので、在宅ワークよりパン屋さんの方が断然応援してもらえる。
わかり易いからだろうか。
いや、私自身、生き生きとしているからだろう。
以前、とある女性にこう言われたことがある。
「蓮さんを応援してきて本当に良かった!」
その方とは長い付き合いだ。
プライベート的なお付き合いではないのだが、直接お会いして何度か話をさせて頂いたことがある。
「蓮さんの文章が読みたい!」
そう仰ってくれたので、私は立ち上がり、今に至ることができている。
その方がいなかったら、私って今頃何をしていたんだろうかとも思う。
たった半年ちょっと前。
その日からまだ一年は経っていない。
私にとって恩人のような存在。
辛い時、上手く行かない時、私は必ずその方の存在を想い出す。
私の文章を毎日待ってくれている人がいるのだと。
そういう人が増えて行ってくれることを心から望んでいる。
私には、私にとって一番相応しいポジションがあるはずだ。
有名人になるわけでもなく、無名でもなく。
実力を付けて、一定の人々に楽しんでもらうことは可能なのではないだろうか。
しょぼくれて生きて行くのは私らしくない。
私の人生『ロックンローラー』で終わると思っていた。
しかし、そこから始まると云う風にやっと考えられるようになった。
私には天から与えられた使命がある。
きっと、子供の頃からわかっていたはず。
経験と云うものが必要で敢えて遠回りしたのだろう。
その辺の子供達とは違うといつも思っていた。
だけどそれがどういうことなのかわからなかった。
最近気付いたことは、実力と云うものは磨けば光るということだ。
特に技術的なことは教われば上達する。
つまり、自分に対して可能性を感じ始めたのだ。
もしかしたら、自分が想っている以上に私はできるかも知れないと。
魂が漸く目覚めたような気がする。