nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

人様はそれほど自分のことを思っていない

友人がよく言う台詞がある。

 

「人様はそんなに自分のことを思ってくれてはいない」

 

本当にその通りだな、と思うことが最近多々ある。

私はもち吉に出会ってから今日に至るまで、一日も忘れたことはない。

しかし、人々にとっては他人の愛犬の命日のことなどどうでもいいのだ。

私はこの一年、常に頭の中にもち吉がいた。

心の傷を誤魔化しながら、一年間過ごした。

その結果、傷は消えることはないのだと悟った。

楽しかった想い出だけが美化されることもなく、悔やむ気持ちは色褪せないとわかった。

恋愛なら、一年も経てばいい想い出に変わるかも知れない。

だが、大切な者の「死」って云うのはきっと何年も何年も私のことを責め続けるような気がする。

それだけ価値のある命だったと云うことだ。

 

キャンプ場ではタープを張ったものの日陰が無く、パソコンのモニターが逆行で良く見えなかった。

涙で文字が滲んでしまったせいもあったし、暑さのせいもあって文章どころではなかった。

それでも書いたのは、キャンプの報告をしたいからではなく、もち吉の命日だと云うことを記しておきたかったからだ。

そして私がどういう気持ちで書いているのかを伝えたかった。

確かにロクな文章が書けなかった。

それでもだ。

人々にとっては、私如きの愛犬の命日などどうでもいいのだということが私に伝わった。

勿論、どれだけ私が可愛がっていたか知らない人もいる。

今となっては、殆どの人が知らないかも知れない。

 

動物と一緒に暮らしたことがある人なら少しはわかるのではないだろうか。

しかし、世間は冷たい。

私の心の傷よりも、責任の方を問い詰めるだろう。

励ましのお言葉を戴いたところで傷が癒えるわけではないが、一言あってもよくね?みたいなことを思わざるを得なかった。

私なら、一言添えるけどなぁ。

 

「人様はそんなに自分のことを思ってくれてはいない」

 

そう語る方のブログでは、二十三日はもち吉の命日であるということを載せてくれていた。

そこに幾つものコメントが寄せられていて、私は涙が溢れた。

こういうことなんだよな~、そう思った。

私が散々命日のことを発信しているにも拘わらず、お悔みの言葉が来ないのは、明らかに私の文章力の無さだろう。

いや、人々にとってどうでもいいからだ。

ハッキリ言って、今でももち吉は私の一部である。

天国で見守ってくれているから、元気に仕事ができるのだ。

別に怒っているわけじゃない。

私は読者の存在を感じて毎日書かせて頂いているが、読者からすると私の存在はそうでもない。

いちいち、私のことばかり考えて生きているヤツなんていない。

家族ですら、そうだからだ。

こうして文章を書いている時は、家族のことなど忘れている。

パン屋さんでバイトしている時は、何もかも忘れている。

気になるのは先輩達の顔色くらいなものだ。

だけど、私の記事を読んでいる時くらい、私のことを思ってくれてもいいじゃないかと思った。

 

見返りを求めず、無償の愛を貫くのが私の生きる姿でもある。

それでも、やはり寂しかった。

正直に謂うならば、そういうことだ。

もしかすると、触れてはならないと思ったのだろうか?

キャンプ中だったから遠慮してくれたのだろうか?

それでもやはり私にはわからん。

仕事の話も大事、キャンプの話も大事、盛沢山だったからかも知れない。

なんだかもち吉に申し訳ない気持ちになった。

ぶっちゃけ、私を含めた一部の人だけがもち吉を偲んであげればそれでいいのかも知れない。

でもさ、私だったらお悔みくらい言うけどね。

その仔やその人を知らなくとも、たった一言で済む話。

人様に多くを望んではならないってこういうことかと、痛感した。

お声をかけてくれた方、気にしてくれた方には申し訳ない話だが。

今日はバイトの後、速攻で勉強会。

気を取り直して、頑張る。