人生の目的が変われば、人生の質が変わる。
私の場合はどうだろうか。
人生の目的は書くことだ。
そう決めてから、確かに人生の質が変わった。
目的が明確なので、日々何を考えてどう生きればいいのかがわかり易くなった。
元プロ野球選手のイチローは、階段を歩く時もご飯を食べる時も野球のことばかり考えていたから上達したのだそうだ。
私も実はイチローが大好きで、イチローの本を何冊も持っている。
一時期ハマって、名言集や成功哲学を読みまくった。
ちょうど五、六年前の話だ。
しかし、その頃はまだ「書く」という使命を実感できずにいた。
それほど自信もなかった。
ところがある日、とあるブログをきっかけに、毎日書くことを考えている自分に気付いた。
今では笑われようが貶されようが堂々と、人生の目的は「書く」ことであると断言できる。
パン屋さんもちょっと慣れてきて、ネタにしてやろうなどと考える余裕が生まれてきた。
つまり、こうして喫茶店にいる時も、居酒屋にいる時も、ネタを探しているのだ。
今、神保町のサンマルクカフェでこれを書いている。
朝から新宿で打ち合わせがあり、パソコンを持参していた。
旦那が半日で仕事が終わったので待ち合わせしてここに来た。
読書に最適だったのだが、あいにく本を持って来なかった。
だから、これを書いている。
やはり夜に書くのはシンドイ。
歳なのかな~。
人生の目的が変わると、人生の質が変わる。
イチローの真似をするわけではないが、イチローの教えは重んじているつもりだ。
イチロー曰く、最も重要なのはルーティンであるということだ。
私にとってのルーティンは毎日この文章を書くことである。
何度も言っているが、練習のためにこれを書いている。
文章力を磨くため、人に伝える力を付けるため。
小説とはまた違う。
この文章とは別に、今小説を書いているが実に難しい。
「書く」ということは、文字を並べるだけではない。
自分の中にある醜さや弱さを吐き出す作業でもある。
自意識の高さや嫉妬心は、私が最も嫌う自分の欠点だ。
それらを小説の中なら出せるから不思議だ。
普段は見せないようにしている部分を、小説のためなら曝け出せる。
面白い作品にするためだ。
日々のこういう文章は、日記の延長でいいと思っている。
その日その時感じたことを綴るだけである程度まとまった文章になる。
無論、面白い日記が書けたら最高なのだが。
人生の目的が変われば、人生の質が変わる。
とある先生はこう仰っていた。
「蓮さんの文章はもっと多くの人に読まれるべきだ」
少しずつ読者の方は増えているが、爆発的ではない。
きっと何かが間違っていて、何かが欠けているのだ。
それは一体何なのだろうか。
私は日々、それを模索している。
大衆の心に響かない原因が必ずあるはずだ。
もしかしたら写真が悪いのかも知れないし、文章そのものに魅力が欠けているのかも知れない。
はたまた、私の中にある醜さをもっと出した方が共感が得られるのかも知れない。
人々は、自分からはなかなか言えないからだ。
いずれにせよ、私本人は身を削る作業になることに変わりはないのだが。
「書く」という作業は誰にでもできるわけではない。
恐らく、醜さも弱さもさらけ出す苦痛に耐えうる強靭な精神力が必要なのだろう。
また、徹底された執着心も大事だ。
ほとんど金にもならないことの虜になるには、備わったものが必要だ。
やはり、己の中にある負の部分を出せるか出せないかが分かれ道になると思う。
何でもベラベラ話ている私ですら抵抗があるからだ。
しかし、それができてこそ「書く」という使命を全うできるのではないか。
平和に生きて行きたい人には、書く作業などお勧めしない。
身も心もボロボロになっても、それでも書く人は書く。
そういう人はきっと選ばれし者なのだろう。