さっき雷雨が降っていた。
そのお陰なのか、とても涼しく感じられる。
エアコンも要らないくらいだ。
夜はゆっくりしたいので、先にこれを書いてしまうことにする。
編集作業をしていたのだが、これも大事。
風呂も入りたいし、スーパーにキャベツ買いに行かなきゃならない。
夕飯の支度もしなくちゃならない。
たまに私はバイトと打ち合わせ以外は家にいるから、時間があると思われることがある。
自分の仕事がなかなか進まなかったリすると、どうして蓮さんは午後は一人で家にいるのに…となるのだ。
しかし、主婦って忙しい!
ウチなんて、旦那の晩酌に付き合わないといけないし、本当に自分時間は限られる。
それでもなんとか毎日書いているので、もし良かったら読んでみて欲しい。
白紙を千五百文字埋めて、写真をセレクトするだけでも結構な作業なのだ。
ましてや、今、とある問題にぶつかっている。
「孤独と孤立の違い」
これ、簡単なようで文章の中で組み立てようとすると非常に難しい。
孤独とは、自己に与えられた生命燃焼である。
これを聞いて、すんなり理解できる人がどれだけいるだろうか。
私はニュアンスはわかっている。
「自分がひとりである」と感じる心理状態、身よりがいない、独りぼっち。
逆に孤立とは、「助けが得られず独り切り離された状態にあること」とあった。
孤独を愛する人、孤独を味方に付ける人も存在する。
つまり、孤立とは状況を指し、孤独とは気持ちを表現することだそうだ。
うん、うん、ここまではわかる。
「自己に与えられた生命燃焼」と聞いても難しくない?
これをわかり易く表現するにはどうすればいいのだろうかと考えていた。
たぶん、私は孤独と孤立の両方を経験している。
完全に社会から孤立していた状態から脱皮して、仕事に生きることができたからだ。
それでも、私の約十五年くらいは孤立と孤独を行ったり来たりしていたと思う。
二十四歳で富山県に移住してからは、本当に独りぼっちだった。
しかし工場での仕事があったので孤立ではなかった。
その会社を辞めてからは、上京したものの友達と云うものができなかったので、やはり独りぼっちだったんだと思う。
結局、結婚するまで独りぼっちだったかも知れないなぁ。
今は幸い友達に恵まれていて、独りぼっちではないのだが。
そう考えると、結婚してからの方が友達ができやすくなったのかも知れない。
私も人並みの経験を経て、人生観も変わったのだろうな。
ただ、今後孤立することはあるかも知れない。
私がバリバリ仕事できているうちは大丈夫だと思う。
身体も頭も動かなくなった時、年金のみで生活するようになったら孤立してしまうかも知れない。
せめて月に一度でいいから話相手になってくれる友達のような存在は大事にしなければならないと思う。
何故なら、孤立は危険だからだ。
現代において、社会から孤立してしまう高齢者は多いのではないだろうか。
孤立するのではなく、孤独を愛して行ける高貴な人間でありたい。
私は孤立した状態で、どんどん堕落して行った経験があるので尚のこと。
自分が孤立してしまわないようにするにはどうすればいいのか、一度考えた方が良いのかも知れない。
そこで辿り着くのがまたこの言葉。
「自己に与えられた生命燃焼」
何度も言うが、この表現難しくない?
生命燃焼できればいいのだが、認知症などになってしまったらそれができない。
例えば私は「書く」という生命燃焼をしながら死ねればカッコいいが、できなくなったら何をする?
ご飯食べて、テレビを観るしかやることなくなるだろ。
ウチの近所は独り身のご高齢者ばかり。
孤立死して欲しくないと願いながら、なかなか声を掛けてあげられない。
せめて、回覧板を持って行った時くらい、立ち話してこようかな。