橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

任侠とは何か?

冷房を入れていても暑くて、集中力に欠ける。

旦那は『極道の妻たち』という映画を観ている。

その横で、私は「任侠」と云うものについて調べている。

本当は二千年に起きたススキノでの暴力団員による射殺事件について調べていたのだが、明確な情報が上がってこない。

仕事でとある文章を書いていて、それに使おうと思っていたのだ。

しかし、情報がない。

 

「任侠」とは仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。

ウィキペディアにはそう書いてあった。

そして、男としての生き方だと記されてあった。

確かにそうだ。

私は任侠を持った男に憧れる性質を持っているのかも知れない。

昔付き合った人の生き方に惚れ、今でも尊敬している人がいる。

なんであんなに惚れたのかって、任侠を持っていたからだ。

任侠について調べて行くうちに、過去の謎が解けたような気がした。

困ったり苦しんだりしている人がいたら放っておかなかった。

そんな姿を見て育った若き私は、人間とはこうあるべきだと学んだ。

 

私が想うに、任侠とは暴力団がやっていることとは真逆のような気がする。

何故なら、一般市民をターゲットにした犯罪が多いからだ。

寧ろ、任侠を持っている人は暴力団など務まらないと云うのが私の自論だ。

だってそうでしょう?

困ったり苦しんだりしている人をターゲットにして、闇金や薬物を勧め、人身売買まで行っている。

それらは、任侠に反しているではないか。

私は過去に一人、暴力団を辞めさせたことがある。

その人は現在実に幸せな生活を送っている。

何故、若き私はその人に目を付けたのか。

拘わらなければいいのに、徹底的に肉体労働をさせ、暴力団から遠ざけることに成功した。

それはその人が任侠を持っていたからだ。

この人には人を殺せないし、悪いこともできないのだと悟った。

つまり、私は若い頃から人を見る目があったと云うことだ。

それなのに旦那と結婚してしまったのは、やはり神様から与えられた試練なのだと思っている。

 

任侠イコール暴力団などと云うのは間違った考え方だ。

若しくは私が知らないだけで、昔は任侠を持った人が大勢いたのかも知れない。

私の調査によると、一九七〇年が暴力団員の数はピークだった。

今では四分の一ほどに減ったとのこと。

この期に及んで、まだそんなにいるのか、とも思った。

確かに私がススキノで生活していた頃は、そこら中に怖い男の人達がいて、立派な車が横付けされていたものだ。

女が一人で街をフラフラしていると、えらい目に遭うと言われていた。

失うものが何もなかった私は平気でウロウロしていた。

しかし、私だって本当は怖かった。

 

そもそも、今どき任侠を持った人はどれだけいるのだろうか。

私が見てきた世界では、それを持った人など殆どいない。

仮に持っている人がいるならば、一生の付き合いができると思う。

女で任侠を持った人はいるのだろうか。

勿論いるだろうが、これまたピンと来ない。

私は任侠を持っているのだろうか。

多少なりとも持っているにせよ、私はナイチンゲールではない。

マザーテレサでもない。

しかし、これだけは言える。

孤独に生きてきたが故、孤独な人を放っておくことができない。

だからこそ、旦那と別れられないのかも知れない。

私のそう云った性質をわかっているわけではないとは思う。

でもズルくない?

綺麗事に聞こえるかも知れないが、相手が幸せになってこそ、初めて自分の幸せを追求できるものだ。

己の幸せなんて後回し。

関わる全ての人が幸せになることが、私にとっての幸せかも知れない。

それを女版任侠と云うのだろうか。

それにしても、、任侠とは生まれ持ったものかも知れない。

誰かに教わったり、徹底教育をされたりしてわかるものではない。

天から授かったものなのだろう。