よくある「悩み相談」的な本を読んでいて思うことがある。
どうして人々はそんなことで悩んでいるのだろうかと。
仕事、家庭、人間関係、お金などだ。
私は子供がいないにも拘わらず、子育ての悩みを相談されることが多々ある。
ハッキリ言って、てんでわからない。
では何故結婚したのか?と訊かれるが、旦那という存在が必要だと思ったからだ。
子供はいらないが、夫婦と云うものに絶大なる憧れを抱いていた。
だから結婚したのだ。
最初はこんなはずじゃなかったと思い、何度も離婚を考えた。
しかし、今となってはあの時早まって出て行かなくて正解だったと思っている。
私のたづなを引くものは、愛犬の存在だったり、本の出版だったリ、様々だった。
その都度、タイミングは今ではないなという予感だけがしていた。
その直感に従った結果が今だ。
もし、ここを出て行っていたら、文章など書けなかっただろう。
朝から晩まで、組織の中で無理矢理働いていたに違いない。
書くことに手が回らず、放棄していたかも知れない。
歩む道も出会う人も、何もかもが変わってしまったことだろう。
以前も書いたが、家族がいると云うのは悪いものじゃない。
よく聞く話だが、お互いに家では会話が無く、それぞれ不倫している夫婦がいるらしい。
不倫していなくても、完全に無視し合っている関係もあるそうだ。
私にはそれができない。
確かに、会話が無いことはザラにあるし、無視されることもある。
でもやっぱり目の前に人間がいたら、私は話しかけてしまう。
最近あまり無視されないのは何故だろうかと考えてみた。
たぶん、私が歩み寄っていることに気付いたのだと思う。
私はしばらくソッポを向いていたが、それが寂しさの素だと気付き、自分から積極的に話しかけるようにした。
要は、旦那に対しても体当たりするようにしたのだ。
先月くらいからかな。
何となく我が家の空気が変わったのが私にはわかる。
もしくは、バイトと自分の仕事で朝から晩まで忙しい私に対して、少しは敬意を持ってくれたのかも知れない。
石の上にも三年というが、本当にそうだなと感じる。
三年という節目で、変わりつつあるからだ。
それでも結婚って難しく、何十年経っても仲の良い夫婦もいれば、離婚する人もいる。
それに対しては、正解も不正解もないし、幸も不幸もない。
だけど、結局どこまで歩み寄れるかが大切なのではないか?と思う。
友達もそう、仕事もそうだ。
私は何故か給料の安いハードな仕事にしか受からない運命を持っているのだが、必ず体当たりで完全燃焼してから去る。
充分過ぎるくらいやったと自負できるまでやる。
その代わり、いずれはその職を去ると最初から決めているので、あまり正社員にはならない。
まぁ、子供がいないからこそできることなのだが。
それなのに、私に子育ての相談が来るのは何故なのだろうか?
私は子供目線でなら考えることはできるが、親目線では一切答えられない。
私にできることは話を聴くことくらいだ。
もし、私に子供がいたら若い旦那さんをもらっていたことだろう。
それだけは言える。
私が死んだ後、面倒見てくれる人の方が圧倒的に良いからだ。
ただ私は、子供はもういいや、っていう世代の人を選んだ。
それは、私自身が親になって責任を負うより、体当たりの人生でいつ死んでも悔いはない生き方がしたかったからだ。
事実、これで良かったと思っている。
何の責任も無い私は、縦横無尽に生きることができる。
年老いたら、寂しい想いをするのは覚悟の上。
それにしても、「悩み相談」的な本に書かれている悩みってどうしてあんなに下らないのだろう。
きっと「体当たり」と聞いてもそれを実行できないだろう。
悩みに真摯に答えているほうが憐れに感じてしまう。
私は悔いなんてない。
かといって、母さんが生きている間は死ねないけどね。