橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

それを勇気と呼ぶ!

やばい!

また時間が無い!!

どうして一日中パソコンに向かっていたくせに、こうしてギリギリまで白紙に向かわないのか!!

急げ!!

また寝不足になるじゃないか!!

と云うのも、戴いた原稿の校正をしているのである。

今年のクリスマスイブ発売なのだが、来月中に校正を終わらせようと詰め詰めでやっているのだ。

何故なら、十二月には目の手術を控えているからだ。

何かあって文字が見えなくなったら、大勢に迷惑を掛けることになる。

目が見えなくなったら、それこそ文章が書けなくなる。

最新医療技術を信じているのだが、悔いが残らないように、今週末は高尾山へ行ってくる。

そして来月二週目はキャンプだ。

キャンプについては、また後日話をしよう。

ネタは先に取っておきたい。

 

 

たぶん、目の手術がいい分岐点になるだろう。

数日間スマホもパソコンも見れないかも知れない。

その間は潔く、お休みしようと思っている。

うわぁ、パソコンはともかくスマホを見れないのは辛い!!

空き時間に読書もできない。

ワタしゃ、一体何をしていればいいんだ??

スマホ、パソコン、本、テレビ、全部無理だ。

音楽を聴くにもパソコンを操作しなければ聴くことができない。

そう考えると、今まで普通に見えていたことがありがたいよな。

私の場合は「斜視」で物が二重に見えていたのだが。

なんだか胡散臭いが、当たり前のことに感謝しなければならないのではないだろうか。

当たり前のことしか書けないのが恥ずかしい。

感謝っていうより、五感はいかに大事かってことだよな。

私の場合は目で勝負の仕事なので、失明したら殺してくれと旦那に頼んである。

勿論、遺書は残すつもりだ。

暫しの間、刑務所に入ることになるかも知れないが、それでも殺してくれと頼んである。

他に頼む人がいないからだ。

パソコンを点字にするとか、音声で文章を読み取るとかして活動を続けることは可能かも知れない。

しかし、私個人的には何も見えないと云うのは恐怖でしかない。

自分の顔すら鏡で見ることができない。

片目だけでも生き残ってくれたら、私はサングラスで余生を生きるだろう。

それはそれで仕方のないことなのだが。

そもそも、物が二重に見えるようになってから、焦点を合わせるために片目をつぶって文字を見ていたことが多々ある。

しんどかったし、不自由だったけど、こんなものかな?という甘い認識だった。

医師からハッキリと「手術」と言われて、やっと自覚した。

 

 

しかし、悲観的なことばかり言ってはならない。

私にはまだまだやりたいことが沢山あるのだ。

『破壊から再生へ』の海外出版だ。

日本国内でももっと伸びるとは思うが、海外で弾ける予感がする。

こういう予感は大事にしなければならない。

翻訳家に関しては、私は「この人!」という方を何年も前から決めている。

三年間くらい猶予があれば、引き受けてくれるのかなぁという甘い期待を抱いている。

ところが、「是非、私にさせてください!」みたいな方もいらっしゃる。

こうなると、私ってどういう立場なのだろうか。

 

 

結局海外出版と新作の執筆を終えないことには、死ぬに死にきれないのだ。

失明して、命を絶っている場合ではない。

恐らく生命力の問題だろう。

そして、運を掴む力だ。

私は誰かから何を言われたわけでもなく、海外出版の目標をずっとずっと前から立てていた。

これは理屈ではない。

感覚の話だ。

赤字、黒字の問題でもない。

一言でわかり易く言えば「挑戦」である。

失敗も成功もない。

だって、幻冬舎から出したことだって失敗も成功もないだろう。

本を読んでくれた人にとっては成功で、そうじゃない人にとっては失敗だったと云うだけだ。

だから私は無謀なことに挑戦したい。

バカじゃないの?と笑われてもいい。

結局、バカでもいいのさ。

勇ましさが肝心。

それを勇気と呼ぶのだろう。