最後の日、私はひたすら『ロックンローラー』の編集をしていた。
現実逃避にはちょうど良かった。
この二日間で、半分程度の編集を終えた。
残るは新居へ行ってからだ。
幸い私には自分の部屋があったので、引き籠ることができた。
さてさて、あとはどんな修羅場が待っているのか、楽しみにしていてくれ。
なんとなく筆が進まないのは、同じことのリピートになってしまいそうだからだ。
さすがに私の離婚話は飽きただろ?
結果報告のみでいいような気がする。
じゃあ最後の日に相応しい文章でも書けばいいのだろうか?
そんなものあるわけがない。
最後だからって、想い出に耽っても仕方がない。
今更、分析する必要もない。
グダグダ並べる必要もない。
つまり空白の一日ってヤツだ。
書く必要性もあまり感じないのだが、これだけは書いておく。
不器用の代名詞のような私だが、不器用でもいいのだ。
器用になんてなる必要はない。
傷付いても傷付いても体当たりして魂を擦り減らしていると、助け舟が現れる。
むしろ、不器用だったから良かったのかも知れない。
神様も見るに見かねたのだろう。
これを読んでくれている人の中に、不器用さに悩んでいる人がいるかも知れない。
不器用な私でもなんとかここまでできたのだから、大丈夫だ。
ウチの母さんは、離婚したかったけれども父さんが「国家公務員」だったため離婚しなかった人。
お陰でリッチな生活を送っている。
そんな母さんもまた不器用な人間だと思う。
母さん曰く、子供がいたからだそうだ。
でも、子供が成人しても結局別れられなかった。
内心では、私のような生き方ができるのが羨ましいのだろう。
親子でも真逆の人間だから不思議だ。
旦那との問題は解決しても、親子関係は続く。
次のステージで待っているのは、そういうことかな。
信頼し合いたいなどとは思っていない。
ただ、いい意味で埼玉県と北海道の距離感を上手く利用して、生きていればいいのよ、という関係に持って行きたい。
一から十まで報告し合う関係ではなく、たまに顔が見られればそれでいいという関係。
私っていう人間は細かく干渉されるのが苦手だ。
離婚して、北海道へ帰るという選択肢もあったのだが、それを選ばなかった。
私らしく自由に生きられなくなると思ったからだ。
若くして家出をして生きてきたのに、今更親と同居は辛いものがある。
お互いに元気なうちは、別々に生きてさえいればいいのだ。
ただ、来年の一月、沖縄の祖母の三十三回忌がある。
それには一緒に行くけどね。
その頃には全てが落ち着いて、両親に会う気にもなるだろう。
あれだけ手紙を書いたのに、その内容を疑われていたというのは、やはりしこりが残る。
親子関係が一番難しいかも知れないな。
最終的に両親のどちらかが一人になったら、世話もしなければならない。
とはいえ、上手く行っていないわけではない。
ただ、そんなに心配しなくてもいいのにと思っているだけに過ぎない。
どこまで行っても、信用がないということに軽く失望したのさ。
私はポジティブな楽観主義者なのに対して、母さんは最悪の事態しか考えないタイプ。
そりゃ、揉めるわな。
共通しているのは不器用さ。
決定的に違うのは、自分への信頼があるかないかだ。
私は腹の底から自分を信頼しているが、母さんは自分のことが大嫌い。
そして過ぎ去ったことを未だに後悔ばかりしている。
未だに私を産まなきゃ良かったと嘆いている。
それでも母さんは母さん。
そんな母さんを受け入れて、こちらが大人になって接するしかなさそうだ。
不器用な人間に必要なのは、土壇場で発揮される勇気だと思う。
この国で野垂れ死にすることはないだろう。
安定収入があるわけでもない私が楽観的なのは、貧困慣れしているというのもある。
そう、もはや怖いものがない。
そんな私のことが、何より怖いと母さんは思っている。
それでも仲良くはしていたいよな。