新宿からの帰り道、電車の中でこれを書いている。
一時間半以上かかるので、なんとか書いてしまいたい。
今日こそ、苦戦しないで書きたいものだ。
最近思うことがあるので、書いてみよう。
人間が成長するにあたって必要なことはたったの二つ。
それは、素直さと謙虚さではないたろうか?
自分の弱点を認める素直さ、教えて頂いているという謙虚さ。
自我なんて、捨ててしまえと思う。
それが難しい人も多いのかも知れないが、実にシンプルなことだと思う。
この二つさえ肝に銘じていれば、物事が上手く行かないわけがないと思うのは私だけだろうか?
なぜこんなことを書くかというと、『ロックンローラー』の執筆を通じて強く感じるからだ。
例えば、私は主人公を美化しているところがあった。
しかし、「素直さ」に立ち返り、己の醜さを赤裸々に書いた方がいいのではないかと思ったからだ。
きっとその方が、多くの人の胸に突き刺さるだろう。
美化されたものを書いていて気持ちがいいのは作者本人だけだと気づいてしまった。
これに気づけただけでも、大きな収穫だ。
すると、何から何まで書き直したくなった。
どういうことかというと、時間があるようで全くないということだ。
今月中にはある程度形にしたい。
気合いを入れ直す必要がある。
これも何度も書いているからしつこいのだが、私はあと三ヶ月後には死ぬ覚悟でやっている。
それは、その後のことは一切考えないという意味でもある。
発売してからのことは、無事に発売してから考えれば良い。
そうやって目先のことに集中し、明日のことを憂いたりしない。
それこそが武士道精神ではないだろうか。
だって、安定を捨てたのだから。
ギリギリで生きるとはそういうことだろう。
なぜわざわざそんなことをするかというと、私が橋岡蓮らしくいるためでもある。
私みたいなタイプが真っ当に生きようとすると、ギクシャクするばかりではなく、つまらなくなる。
私は等身大の姿を描いていて、フィクションを生き抜くタイプではないので、私自身不安定なくらいでちょうどいいのだ。
もっというならば、ある程度危険性を帯びていた方が生き生きするだろう。
それは犯罪を犯すとかそういったことではない。
危うさを孕んでいた方が、側から見ている分には面白いということだ。
だからといって、わざと危険なことをする必要もない。
自分が感じるままに、思った通りに行動していれば、それは躍動を伴うものになって行くだろう。
つまり、人の話は謙虚に聴くが、最終的に判断するのは私だということが言いたい。
色んな意見を頂戴する。
だが、最近気づいたことがある。
少しずつ温度差や価値観の違いが顕著になり、孤独を感じるようになってきた。
確固たる信頼の置ける人も勿論いるが、ズレが生じてきた人もいる。
この違和感は間違いのないものだと思っている。
こうして私は孤独に生きて行く。
もしかしたら、運良く新たな仲間に出会えるかも知れない。
しかし、孤独を受け入れる覚悟を決めている。
むしろ、孤独を愛し、孤独好きでいる方が良いかも知れない。
その方が生き易いだろう。
この現実をこう捉えたい。
人間同士、成長の度合いによって会話が噛み合わなくなってくる。
そのすれ違いがお互いの孤独を「一時的に」生むだけだと。
悲哀は永遠に続くわけではない。
人間の人生なんて、出会い別れの繰り返し。
一人になりたくても、事実上なれないものだ。
そう考えると、孤独を貫きながらも、受け入れる体勢ではいた方がいいだろう。
こんな私如きを頼ってくれる人がいるかも知れない。
知らぬ間に「姉御」と呼ばれる年代になったようだ。
生き方や価値観は変わらないが、「在り方」は変えていこうと思っている。
さて、最寄り駅に着いた。