珍しく徹夜してしまって、五時に投稿をアップしてから四時間ほど寝た。
その割には元気で、小説を読了し、ツナマヨおにぎりとゆで卵を食べて、パソコンに向かってこれを書いている。
そもそも、私はなぜ一円にもならないSNSに毎日文章をアップしているかというと、自分の書きたいことを書くためでもある。
日記といえば日記、雑記といえば雑記。
エッセイとは少し違うような気もするが、エッセイかも知れない。
カテゴリー分けするのは好きじゃない。
ただ書きたいことを書いている。
何が書きたいかって、私は自分のことが書きたいのだ。
その日の出来事から始まって、人生哲学のようなことを書いたり、胸の内を書いたり。
いわゆる、自己満足の世界だ。
しかし、それが楽しいのだから仕方ない。
いつかまとめて本にしようなどとは思っていない。
本にする時には、勉強して、新しい原稿に向かう。
つまり、今投稿している文章は、消化試合みたいなものだ。
それでいい。
さて、小説も読み終えたことだし、再び原稿に向かう必要がある。
週末にガッツリ編集しよう。
少々劣等感に襲われて、夢にまで出てきそうだが、私には私にしかできないことがある。
ある人から言われたのだが、劣等感が「負い目」に変わったら、こっちのものだそうだ。
負い目。
私はかなり負い目を抱えている。
多くの方々が期待して待ってくれている『ロックンローラー』、泣き言を言っている暇などない。
とにかく前進あるのみだ。
先日も言ったかも知れないが、「秩序」がわかる人はほとんどの人が成功しているそうだ。
何を以て成功というかは置いておくが、自分が願う道を進んでいるそうだ。
私に欠けているのは、自分を客観視する力のような気がしてならない。
世の中における自分の立ち位置を把握する能力が乏しいかも知れない。
かといって、自分の居場所が不明確であることくらいはわかっている。
この世における自分の役割が定まっていないからだろう。
なぜそう思うかというと、私の文章にどれだけの力があるかがわかっていないからだ。
そういう意味では、日々の投稿だけではなく、本という形にして発売することはとても良いことだと思う。
売れる云々ではない。
影響力の問題だ。
尤も、まとまった文章を一冊に仕上げるということは、ある意味試されているとも言える。
勝負とも捉えられる。
やはり、避けては通れない道なのだ。
前々から言っているように、年に一冊出すのはシンドイ。
しかし、二年に一度でも、やはり本は書き続けるべきだ。
それがどんな形での発売になろうとも、生きている限り続けたい。
そう考えると、私が願う道は決まっていると言っても過言ではない。
ただ、その道だけではメシが食えないから色んなことをしなければならないという話。
むしろ、色んなことをしているからこそネタもあるのかも知れない。
ただ家にいて、どうぞ文章を書いてくださいと言われても、大したことは書けないような気がする。
実際に、私はオフの日は家から出ないのでネタに困り、この投稿を書くのにえらい苦労する。
これが毎日だと考えると、ゾッとする。
時間があれば文章が書けるというものでもない。
だが、面白いように天は私に次々と試練を与える。
だから黙っていても、私の場合はあっちからこっちからネタが降ってくる。
それは私が流動性の生き物だからかも知れない。
じっとしていないから、運命も停滞しないのかも知れない。
つまり、私はまだ神に見放されていないと思いたいのだ。
「橋岡蓮さんの居場所はここにあるじゃないか!!!」
そう言って戴けることもあり、ありがたいなと思う。
とはいえ、文章を書く人にとって居場所みたいなものは無きゃ無いでいいような気もするのは私だけだろうか?