最近考えることがある。
なぜ四十二歳になるまで、手に職を付けなかったのだろうかと。
自分の中にある言い訳としては、この十年間、文章ばかり書いていたことにある。
自分には才能がないと早い段階で気づけば、できることを探していたことだろう。
よく子供ながらにこんなことを想っていた。
母さんはどうして手に職を付けなかったのだろうかと。
それは母さんが父さんと別れたくても金がらみで別れられなかった三十年前くらいに遡る。
当時、母さんは三十代後半。
五年でも十年でもかけて資格でも取得すれば、別れられるじゃないかとイライラしていた記憶がある。
残念ながら、私も母さんと同じようなパターンに陥りつつある。
私には子供がいなかったから旦那と別れられただけに過ぎない。
ところが、私は母さんとは違って、優等生ではなかった。
廃人のような排他的生活を送っていたクズだった。
それに比べたら、書くということを始めてからはこれでもまだまともになった方である。
きっと私の周りには、芽が出るはずもない文章の世界でくすぶっている姿を見てイライラする人もいるのだろうなと想像する。
何も言わないけれども、蓮さんはどうして定職に就かないのかと腹を立てている人もいるに違いない。
そう考えると、奈落の底に突き落とされたような気持になる。
どうせなら、私は私の中にある一パーセントにも満たない可能性とやらを信じてくれる人と一緒にいた方が楽しいのではないかと考える。
まぁ、そういう人の応援のようなものに甘えてしまう傾向もある。
どういうことかと言うと、目には見えない可能性というものを追い求めて生きる方が私は楽だからだ。
世の中のお荷物であることは、重々承知している。
とはいえ、辛うじてなんとか生きている。
そして、自分の好きなことを毎日書いて、自己満足に浸ることもできている。
基本的に超楽観的なタイプなので、なんとかなるさ精神でここまで来てしまった。
ここから先はどうにかしようと思っても、どうにもならないかも知れないという危機感もある。
ところが私には、死を恐れない一面がある。
行きつくところまで行ってみて、みっともない姿で死ぬことは望むところでもある。
責任もなく、失うものもない、手放さなきゃならないものもないという生き方は私が若き頃から選択してきたことでもある。
物心付いた頃から、私という人間は無謀に自由な生活を送るべきだと悟っていたところがある。
そう考えると、人生ってものは自己満足できればいいのではないかとさえ思う。
ただ、私の文章や作品を気に入ってくださる方がいるというのは非常に励みになる。
要は、書くことは最大の喜びなので、誰にも邪魔されたくない。
それは親だろうが神だろうが、私の唯一の喜びを否定する者は許さないのかも知れない。
つまり、価値だ。
確かに皆さんご存知の通り、文章など書いていても金になどならない。
私が理想とするのは、貧困なんてものは最初から覚悟の上、生涯に渡って身を捧げるという姿勢だ。
矛盾しているが、そのように考えると、私には手に職などなくて良かったのかも知れない。
万が一、私にもできることがあったら、生きる喜びを最大限に発揮できなかったかも知れない。
だとしたら、考え方によっては私はお気楽者で幸せ者かも知れない。
長生きなんて考えてもいない。
ただただ、一パーセントに満たない可能性に挑戦し続ける自分が面白くて仕方がないのだ。
人間の多くは、生き延びるために生きているように見える。
私は常に「死」と隣り合わせ。
死ぬために生きていると言っても過言ではない。
生きる喜びを失って、ただ食うためだけに生きるくらいだったら、ハッキリ言って死を選んだ方がマシ。
将来どうするの?とか、老後は?とか訊いてくれる人もたまにいるが、私にはそのような概念はない。