nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

小さな愛の記憶

十三時間に及ぶ校正が終わり、休憩がてら缶ビールを空にしたところだ。

自分で言うのもなんだが、よく頑張った。

集中しないと〆切りに間に合いそうになかったので、かなり気合を入れて取り組んで、やっと提出した。

これで終わりではなく、引き続きゲラ作成までは細かい部分をチェックしていく。

さて、寝るまでにあと二時間しかない。

まだ夕飯も食べていない。

しかし、ワインを飲んだら眠たくなってしまうので、先にこれを書くことにする。

夕飯は後回しでいいのだ。

 

 

ところで私は手紙をもらうのも書くのも好きだ。

字は下手だが、会えない代わりに気持ちを伝えることはできると思っている。

私の場合は、想っていることを正直に書く。

あまり考えずに書いている。

便箋の時もあればハガキの時もある。

油性ペンで書くこともあれば、ボールペンで書くこともある。

戴いた手紙は、過去十年分くらいは残してある。

読み返すことはあまりないが、手書きのものは捨てられない質なのだ。

最近手紙の話をする機会があった。

手紙をもらって嬉しくない人はいなくないか?

私ならどんなに下手な字でもめちゃくちゃ嬉しい。

ウチの母さんは根っからのハガキ好き。

手紙らしい手紙をもらったことはないが、ハガキに書かれた短文に愛が込められていることはわかる。

心配してくれている気持ちも伝わるし、母としての愛情も伝わってくる。

そういえば、男から手紙をもらったことは最近ないな~。

 

 

なぜ手書きの文章は相手の心に刺さるのだろうか。

現代の人は、メールでいいじゃんとか、手紙は重いとか、そのように考えるのだろうか。

だとしたら、私の手紙は重いと感じられるものなのだろうか。

昨日は「直球で一途」の話をしたが、私としては手紙攻撃が一番成功率高くなるのではないかと考えている。

そんなことを真剣に考えている私って誰?って話だけどね。

つまり、恋愛が実ればいいなと応援している人がいるわけで。

人のことながら、自分のことのように考えてしまうのは、私の優しさだろうか。

はたまた、根っからの寂しがり屋から来るものなのか?

 

 

ちょっと話は逸れるが、人間好きなのって必ずしも寂しがり屋なのか?

そうではないと思っている。

人間に失望しても人間に救われた経験を持つ者の代表として言わせてもらう。

これって、人間の有難みを忘れていないかどうかに尽きるのではないだろうか?

誰しも救われた経験はあると思う。

その小さな愛の記憶があるかないかで、人生は左右される。

心が崩壊してしまった多くの人は、記憶を呼び覚ますことができないのではないだろうか。

そう考えたら、小さな愛の記憶とはとても重要だと気づくはずだ。

幼少期にこだわらなくとも、何気ない日常に沢山転がっているはず。

私ぐらいになると、電車の中や、バス停や、居酒屋でも人間の温もりを感じている。

世の中は腐っていても、個人個人にはまだ愛が残っているなと思うし、そう信じたい。

事実、私は愛に溢れた人に囲まれて生きている。

無知な私でも、今、世界がどのような状況にあるかくらいのことは知っている。

それでも失望しないのは、小さな愛の記憶が沢山あるから。

塵も積もれば山となって、大きな愛が私を包んでくれている。

 

 

だからこそ人に優しくできるのだ!

私個人的にはそう思っている。

まぁ、冷たくしなきゃならない人には冷たいのだけどね。

でも、友人の悩みを自分のことのように考えられるのは、巡り巡って小さな愛の記憶を与えてくれた人のお陰だ。

私がそう思うのは、小さな愛の記憶を忘れてしまった人って案外多いのではないかと思うからだ。

病院へ行って、感じの悪い看護師さんに当たることもあるけれど、お大事にって言ってくれたその一言で心温まることもある。

そんな人間好きの私だから、手書きのハガキに胸打たれるのかなって少し想った。