私には消しても消しても消えない疎外感というものがある。
どんなに周囲の人から優しくされても拭えないものである。
集団の中にいると、それは顕著になる。
皆が楽しくしていればいるほど、疎外感に襲われる。
なぜなら、私には協調性がないからだ。
組織や集団というものが苦手な私。
自分の作品ではあるが、『ロックンローラー』はそんな私の個人主義を支えてくれているものでもある。
こちらから歩み寄り、溶け込めるように努力しても、やはり疎外感は消えない。
なぜだろうか。
それについて少しの間、考えてみたい。
この世で生きる限り、完全に組織とは無縁になることはできないのかも知れない。
そう思うと、私などはしょんぼりしてしまう。
敗北感に襲われてしまうのである。
皆の笑顔が眩しい時、私は一人ぼっちを感じる。
一緒になって、その場を楽しむことができないからだ。
それなのに、たった一人でいる時、私は無敵になることがある。
自然を愛し、宇宙を愛し、太平洋も富士山も私の味方であると感じることができる。
怖いものなど何もないような希望に満ち溢れた世界を生きることができる。
それが集団の中では、人間が変わったようにしょげてしまう。
人を愛し、人に救われ、人に支えられて生きていることを忘れたことはない。
しかし、疎外感が消えないのだ。
惨めに感じることもあるし、場違いだと感じることもある。
つまり、一人でいる時の無敵さが集団の中では消えてしまうということだ。
これは、紛れもなく私のいわゆる弱さでもある。
同時に、自分を偽ることができない正直さでもある。
アパートに一人でいる時は、なんでもできるような気になることがある。
都会の中を歩いていてもそうだ。
なぜなら皆が他人であり、私を干渉する者がいないからだ。
そういう意味では、田舎より都会の方が私は生き易いのだと思う。
靴下の色が服装に合っていないからといって、気に止める者はいない。
私を空気のように扱ってくれる都会は、私を傷つけない。
ところが、集団の中で、皆から慕われることは、時として私を深い闇に追いやるものでもある。
歪んだ笑みしか浮かべられない自分を顧みては傷つく。
誰一人私の笑みの歪さになんて気にもしていないというのにだ。
腹から声を出して笑えないことは、更に私を追いつめる。
一人、もしくは空気になることで、私は平穏を得ているのだ。
この悩みは今に始まった話ではない。
子供のころから続く根深い問題なのだ。
極端な繊細さについては『ロックンローラー』という小説で鮮明に描いている。
過剰なる自意識から来る、人間に対する恐れ。
これについては死ぬまで私の中に蔓延る問題かも知れない。
先にも述べたが、私は一人でいると、無敵になれる。
宇宙と一体になることができる。
群れの中ではそれが発揮されないのだ。
ただし、私のような個人主義の人間は案外多いと把握している。
そんな人々にとっては、小説『ロックンローラー』は強烈な味方となることだろう。
なぜこの世で生き辛さを感じるのか、その答えが書いてあるからだ。
この小説が書けた私が、極めて生き辛い人間だからである。
私は忘れもしない。
上京した時、あんなにも神が優しく微笑んでくれたのは、私がこの世で一人ぼっちだったからである。
壮大な富士山と、光り輝く太平洋をプレゼントしてくれたのだ。
職も、金も、家も、友も、一切がなかった。
それなのに、私は無敵だったあの頃を決して忘れない。
全てを捨てたものには神からのギフトがあるということを実感できた出来事であった。
それを裏付けとして、私は小説『ロックンローラー』を書く上で、全てを捨てたにもかかわらず無敵でいられるのは自分を信じているからだ。
それなのに集団の中にいる時、私は私ではない。
この気持ち、伝えられただろうか。