nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

チンタラ生きるとは

ゴールデンウィークはずっと飲みっぱなしだったが、久々に仕事を少しだけして夕方を迎えた。

前日、酒を控えて早めに寝て遅く起きたら身体が楽になった。

静寂が訪れた。

外も雨が止んだようだ。

雨音が聞こえない。

私は雨の日にどこへも外出せず、薄暗い部屋の中で音楽を鳴らさないで雨音を聴きながら一人で過ごすのが好きだ。

どこへも行く用事がないと、なんだかとても優越に浸ることができる。

最近の私は心がとても穏やかである。

それと同時に、筋の通らない人にはきつく当たるようになった。

去って行っても構わない覚悟があるからだ。

おべんちゃらを使って、たかが一冊読んでくださる方が増えたとしても、本当にわかってくれている人々に対して失礼ってものだ。

そう、大事なことはわかってくれる人に筋を通すこと。

そんな人が大勢いるお陰で、私は安心して生きることができている。

私は有名でも何でもないが、私の本を読んでくれた人にとっては所謂特別な存在なのだと思う。

そういう人達のことを裏切ってはならないということ。

十年前は想像もしていなかった。

この世に、自分をわかって受け入れてくれる人が存在するという現実があるということを。

あんなに心細くて寂しかった日々が嘘のようである。

それだけ今は、多くの人に『ロックンローラー』という小説を受け入れてもらって心が満たされているということだ。

大袈裟だけど、生きているって決して悪くないと思える。

紛れもなく、皆のお陰であるとつくづく感じている今日この頃。

だから、心がとても穏やかなのだ。

良いものは良いし、ダメなものはダメ。

そういう分別が付くようにもなった。

この人はダメだと思ったら潔く遠ざけて、自分の周りには心の豊かな人しかいない状況を自分から作る。

それが如何に大切かということもわかってきた。

以前の私は、十人いたら十人に気を遣ってしまうような人間だった。

ところが、もうその必要はない。

私の場合、心に決めたらそのようにしか動かないからな。

 

 

ところで私の両親は、私の本を読んだことがないし、有名作家でもないのに一定数の読者がいることを信用していない。

今度会ったら、徹底的に語ってやろうかと思っている。

如何に頼もしい存在であり、如何に救われているかと。

狙いは両親を安心させるためなのだが、母さんは羨ましいと思い、父さんはそんなはずはないと疑うだろうけど。

 

 

先ほど打ち合わせでこんなご意見があった。

 

「蓮さん、『チンタラ』って具体的にどういう意味ですか?」

「太陽や、空や、富士山や太平洋を感じて美味しいものを食べたりしながら気ままに能天気にジムニーで一号線をのらりくらりと走っている、そんなイメージです」

 

世の中では金や地位のことを指して成功と呼ぶようだ。

私は違う。

金もなく、友もおらず、職もなく、住む家さえなかったとしても、チンタラしていられればそれは一種の成功なのだと思っている。

チンタラしていられるということは、心が豊かで穏やかであるということだ。

たまに、蓮さんには成功体験がないとほざく人がいる。

ふざけんな、と言いたい。

だったらお前は、自分を信頼し、チンタラ生きることの喜びを知っているのかと訊きたい。

この類の話は、わかる人にしかわからないだろう。

以前にも書いたが、俺は必ずやれる!と思えることが才能だと村上龍が言っていた。

まさに、それだと思う。

俺は必ずやれると思える人は、人生をワクワクしながら歩む。

逆に金や地位でしか物事を判断できない人は、何かにすがることでしか生きられないのである。

正々堂々と、身一つで勝負するなんて怖いのさ。

私などは、本当は私のことが羨ましいのだろうと思っている。

金でもない地位でもない、千人の良き読者と書けば分かり易いでしょうに。

全てを捨てて晒してしまった私には、怖いものがあまりない。

悔いもない。

当然ながら、未練もないのさ。