またまた真っ暗闇で、これを書いている。
目が悪くなりそうだが、暗い部屋が落ち着くのである。
どんどん増える一方の空き瓶。
そして、空き缶。
私は毎日飲んだくれているようだが、なるべくこれはシラフで書くようにしている。
やはり、真面目に書きたいからだ。
酒はいつでも飲めるので、今日も頑張って書こう。
ところで、最近は極めて穏やかだと書いてきた。
私からストレスというものが、消えてしまったような錯覚に陥るほどだ。
とはいえ、今までは決して順調だったわけではない。
鳴かず飛ばずだったし、金銭苦だったし、労働による疲労から何も手に付かないような生活を送っていた。
一日十時間を超える労働から帰ってきて、パソコンに向かうのも一苦労。
私は何のために生まれ、何のために生きなければならないのかまるでわからなかった。
友達にも恵まれることなく、いい男が現れるわけでもなかった。
ただただひたすら毎日労働して、帰ってきてから酒を飲んで寝るだけの日々を随分と長い間続けていた。
孤独だった私は、唯一自分を支える手段として日記を書いていた。
私の場合は読書よりも日記を書くことに重きを置いていた。
その日あった出来事や、仕事のこと、過去のことから将来のことなど、読者が一人もいない状態で、たった一人で書き綴っていた。
その延長線上に今があるだけの話。
私が書いていた日記は少しずつ成長し、読んでくれる人も増え、本も何冊か書いた。
その結果、何が起こったかというと、天が私を味方してくれるようになった。
具体的にどういうことかというと、以前から願っていた通りになったのだ。
たった一人でパソコンに向かっていることに変わりはないけれど、肉体労働から解放され、「書く」ということがあたかも私の労働であるようになった。
そのようになった理由はたった一つ。
私は、他のことは何もできない人間だったからだ。
たまにこういう人がいる。
「蓮さんは書けるじゃないか!」
いやいや、私の過去を知らないからそんなことが言えるのである。
私は正しい日本語も漢字もわからないような阿呆だった。
かといって勉強してきたわけではない。
散々と公の場で恥を晒し、無知無学を晒し、教養のなさを晒してきた。
それなのに今こうしていられるのは、自分の中にある見栄やプライドや恥を捨ててきたからだ。
もうこれは何度も何度も言っていることなので、しつこいと感じる方もいるかも知れない。
しかし、私は声を大にしてこう言いたい。
男でも女でも、全てを捨てて晒すことなど簡単にできることではないのだと。
一部の人は私の教養のなさを笑うかも知れないが、多くの人は私の文章を読んで勇気をもらうことができる。
なぜなら、私がやっていることは自分にもできそうな気持ちになるからだ。
私の処女作である『破壊から再生へ』を読んだ方の多くがこう言った。
「私も本を書いてみたい」
だけど、実際に書いている人を私は見たことがない。
なぜ、私にはできて他の人にはできないのか。
それは全てを捨てる覚悟など、なかなか持てないからではないだろうか。
何度も同じことを言うが、全てを捨てるということは決して怖いことではない。
むしろ清々しく、見ている世界が百八十度変わり、世の中の優しさを知ることができるのである。
無能な私が堂々と臆することなく生きていられるのは、覚悟を決めたからに他ならない。
結果としては、付き合い辛い人は消え、いい人ばかりが寄ってくるようになった。
それは紛れもなく、私が穏やかに変わったからだ。
昔の私は尖っていたからね。
人間に心を開くということがどういうことかよくわからなかったけど、ようやく最近になってわかるようになった気がする。
つまり、無防備でいるということだ。
バリアなんて必要がないと知ることができたのさ。