男前の蓮さんだが、そんな蓮さんの女らしいところを見てみたいと言われてふと考えてみた。
私って女らしくないのだろうか。
女性からは女らしい人だとたまに言ってもらえることがある。
私にとって女らしさとは何ぞや。
結論から話すと、私の中にある女々しさなのではないだろうか。
女々しさとは、本来男が持っているものである。
つまり、女々しさに注目してみると私は男らしいとも言える。
では、女々しさとは何なのか。
私にとっては、未練たらしさのような気もする。
しかし、覚悟を決めて『ロックンローラー』を書いてからというもの、未練なんてものは吹き飛んだような気がする。
私にとって何が正しくて何が間違っていたのか、はっきりとわかってしまったからだ。
こうして真剣勝負の小説を書き切り、発売して多くの方に読んで頂くと、その人の人となりが一発でわかってしまうものだ。
私が覚悟を決めて真剣に書いたものと真剣に向き合ってくれる人とそうじゃない人というのが手に取るようにわかる。
一番しっくり来たのは、これである。
「よくぞやった!」
そう言ってもらい拍手喝采を浴びた時、私は今までのどんな瞬間よりも達成感があった。
逆に、この小説のスキャンダラスな面にしか目が行かず、真意を読み取ることができずに離れて行った人もいる。
そういう人のことはぶった斬るしかないのである。
今までの私だったら、理解されないことを嘆いたり悲しんだりしていた。
しかし、もう追いかけることもない。
わかってくれた人だけを大事に生きて行く方が潔くないか?
つまり、この小説は人々にとっての踏み石になったということだ。
読んでみて、より一層蓮さん蓮さんと歩み寄ってくれる人もいれば、私にどう接していいのかわからないような人もいる。
要は、読者の方が試されたのだ。
買ってくださったけどまだ読んでらっしゃらない方もいれば、どうしても読みたくて探してまで購入してくださった方もいる。
その温度差は、私に直接向けられるものであり、私にとっての物差しでもある。
そういう意味で、表面的な人っていうのは見事に離れて行った。
逆に恐る恐る読んでみたけれども、私への信頼度が増したなと感じさせてくれる人もいる。
何が言いたいかと言うと、小説『ロックンローラー』を書いたことによって一皮も二皮も剥けて、女々しさがなくなったのかも知れないということだ。
では、私の中に女らしさはなくなったのか?と訊かれたらこう答える。
それは、溢れんばかりの母性本能であると。
下を向いて歩いているような人に声を掛けずにはいられず、放っておけずに支えたくなる。
どうせ俺なんてさ、みたいな人のことは抱きしめて励ましたくなる。
私の中にある女らしさってそこしか今のところ思い浮かばない。
以前にも書いたが、自分を棚に上げて嫉妬心や独占欲で相手を誰にも渡したくないと思うのは女らしさではなく我が儘でしかない。
そう考えると、自分の中にある女らしさって、自分ではイマイチよくわからないものなのかも知れない。
私は料理もできないし、相手に尽くしたりすることもない。
せめて内面的な女らしさは捨てたくないとは思うのだが、これは客観的に見てくれる第三者の方がわかるかも知れない。
ちょっと自分でも難しくなってきたが、幾らロックで生きているとはいえ、女らしさは重要だろうと思うのだが。
もっと客観視できるようになったら、もっとまともなことが書けるのではないだろうか。
とはいえ、寂しがり屋な部分は女らしさではないだろう。
案外男の方が寂しがり屋だったりするからだ。
私が本気で寂しがり屋だったとしたら、こうして一人ではいられないのかも知れない。
寝る間際に考えることでもないような気もするが。