マッシヴアタックのプロテクションを聴いていると、集中力が増す。
確かにロックロールではないけれど、新しい風を吹き込むことも大切だと言われたばかり。
この手の音楽は新鮮さも相まって、私に心地良さを提供してくれる。
ドアーズのカバーもやっていてテンションが上がった。
最近の私は自宅では缶のハイボール。
でもよく見たら「ニッカウイスキー使用」って書いてあった。
そりゃ、角ハイボールより安いわけだ。
いやいや、それにしても先日「も」上野で酔ったな。
酔わないように酔わないようにとひたすらビールを飲み続けたのだが、ビールオンリーでも酔うということがわかった。
途中から睡魔に襲われたにもかかわらず、よく帰ってこられたなと思う。
毎度のことだが、本当にいつもいつもよく帰ってこれるよな。
かといって、チャンポンはアカン。
マジで酔いが半端じゃないからだ。
気をつけようと思ってはいるのだが、飲みに出たら諦めた方がいいかも知れない。
酔っているのでコンビニに寄る。
そして蕎麦やらおにぎりや缶チューハイなどを買い込むのである。
食べ過ぎだと悩んでいるのに、なぜ炭水化物ばかり買うのだろうか。
まぁ、酔った勢いで中華料理屋に入って広東麺を食べるよりマシなのだが。
『新しい風』で思い出したことがあるのだが、私の投稿は私の知らないところで密かに見られているのだなということ。
先日、ジムニーサンライトというイベントへ行った時にそれを知った。
だからちゃんと真面目に書かねばならぬ。
毎朝楽しみにしています、と多数声を掛けてもらった。
私が五時に起きている意味もあるんだなと思った。
そもそも、やはり最近では起きたらすぐにSNSを開く人が多いのかも知れない。
だとしたらとにかく読んでくれている全ての方へのメッセージを書かねばならない。
しかし、私から発信するメッセージの大部分は、「チンタラ生きる」に集約されてしまっている。
「頑張る」とか「一生懸命」とか「死に物狂い」などというものではなく、あくまでも「マイペースでコツコツ」である。
なぜなら、そのようにしか生きられない方が大勢いるというのを知っているからだ。
一生懸命頑張れなかった自分をついつい責め、他人と比較しがちな人はきっと辛かろう。
私もそうだったからよくわかる。
ただ、この世には「躁」と「鬱」があるように、死に物狂いで生きた先に待っているのは意味不明な虚無であるような気がする。
壁というものにぶち当たる日が必ずやってくる。
それを乗り越える方法は「マイペースでコツコツ」なのだ。
人間って不思議なもので、調子のよい時は調子がいい人に憧れ、調子が悪くなると調子が悪い人が心の支えになったりするものだ。
メンタル的コンディションが良くても、金銭面は苦しかったりする。
その逆も然りだ。
どんなに金があったって、心が病んでいる人は沢山いるようにね。
調子が良い時もそうじゃない時も、心の支えになるのはマイペースでコツコツ生きている人の姿ではないだろうか?
九十九対一の原則を私は『破壊から再生へ』に書いている。
たった一パーセントが間違っていないことだってあるのだとね。
だからその他大勢になる必要はないのである。
「皆」という表現は時に誰かを傷つける。
皆なんてものは存在しないからだ。
それなのにあたかも周りに着いて行けないことの代名詞かのように使われる。
仮に「皆」と使うことがあるならば、私がこれを読んでくれている大勢に向かって何かメッセージを発信する時くらい。
多くの人が使っている「皆」とはまたニュアンスも目的も違うのだ。
人間に疎外感を与えてはならない。
そのように私は思っているからこそ、その他大勢のことなど私が気にしちゃいけない。
もっと言うならば、多くの人に橋岡蓮という『新しい風』を吹き込みたい。
ただそれだけだ。