nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

迷いや不安からの脱却

酒を控えようかなと思いながらも飲んでしまうのが飲兵衛である。

ジムビームハイボールを飲みながら、パソコンに向かってこれを書いている。

寿司を何貫か食べたら胃がはち切れそうになったのだが、やっと落ち着いた。

最近はお陰様であまり寂しいと思うことがないのだが、万が一寂しい時は私の場合は電話してしまう。

相手は大体決まっている。

異常に忙しくしている人や、電話に出ない人には当然ながら電話しない。

それはその人のことを頼りにしていないとかそういうことでもない。

電話しやすい人にしているわけでもない。

この人と話をしていたら落ち着くとか、腹にスーッと落ちるとか、プラスの方向へ導いてくれる安心感があるとか、そのような理由がある。

私の場合は、八割方電話に出るようにしている。

メールやLINEの返信もなるべく早く返すようにしている。

つまり、常に携帯電話を肌身離さず持っているということだ。

それは寂しいからではなく、蓮さんは常に応対してくれるという安心感を持って欲しいからだと思う。

もっと言うならば、連絡しやすい人で在りたいと願っているからだ。

もしかしたら寂しがり屋精神がそうさせているのかも知れない。

ただ、先にも述べたが、最近は寂しいと思うことが減った。

なぜだろうか。

小説『ロックンローラー』を一定数の人々に受け入れてもらえたからだろうか。

それだけではないような気がしてならない。

私が考えているのはこうだ。

自分を確立してきたからではないだろうか?

私という人間はとても頑固で、人の意見に耳を貸すタイプではない。

自分の考えというものが確固たるものになりつつある今、段々と開き直りが入ってくるようになった。

私はこういう人間です、みたいなね。

それに着いてこられる人だけが着いて来てくれればいいと本気で思っている。

事実、こんな私に着いてきてくれる人がいるお陰で、寂しさを感じなくなってきているのではないだろうか。

とはいえ、私の考えや生き方は、確固たるものになりつつあるので、着いてきてくれる人がいなくなったとしても私自身が変わることはない。

在り得ない話ではあるが、多くの人が去って行っても、また別の新しい誰かが共感してくれることだろう。

 

 

話は戻るが、寂しがり屋の私でもあまり寂しさを感じなくなったのは酒量にも表れているような気がする。

流石に一滴も飲まない日は調子が狂うが、ハイボール二缶程度で満足できるようになった。

酔った感覚がなくても、眠剤と鎮静剤で朝まで眠れるようになった。

結局、心が満たされるってこういうことなんだよなと思った。

もっと具体的に言うならば、自分を確立し、ブレないでいられる安心感を持つことだ。

迷いが寂しさを呼び、不安が寂しさを増殖する。

それらがなくなれば、自ずと心は安定に向かうものだとわかった。

迷いや不安は、時に人間臭さを感じさせるが、無い方がいいに決まっている。

とにかく他人を気に留めないことだと思うのは私だけだろうか?

他人に真剣になり過ぎると、怒りなど別の感情が湧いて来てしまう。

人と自分は決して同じではない、全く別の生き物であることを把握していれば程よい距離が保てると思う。

 

 

恋愛も友情も仕事も距離が大切だと思っている。

以前の私は理解者が欲しくてたまらなかった。

ところが、理解者を求めないと決めてからすこぶる楽になった。

私のことは私が一番にわかっていればそれでいいと。

とはいうものの、本や日々の投稿や、蓮’sBarをやるのは、蓮ワールドを広めたいからなので矛盾しているかも知れない。

しかし、迷いや不安から脱却し、自分の世界観を追い求める姿は少なからず共感を産むものだと思っている。

ぶっちゃけ、私が寂しがってどうする?

すぐに拗ねる拗ねキャラだと言われているけれども。