nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

孤独を感じる瞬間

日本の教育は個性よりも協調性を重要視している。

だから、私みたいなヤツは、ことごとく反対され、打たれるのである。

皆一緒、ではなく、私オンリーの生き方考え方を貫こうとするからだ。

反対意見など、私にとって眼中にないのだが、親しい人から反対されると無性に腹が立つ。

そして思うのである。

あぁ、所詮はこの人もその他大勢の人だったんだなとね。

リスクも背負わず勝負もしない人生は、確かに安泰かも知れない。

しかし、人生はサバイバルであり、ギャンブルでもある。

仮に私が人様から金を借りてギャンブル的生き方をしているなら文句を言われても仕方ないだろう。

金を貸すことはあっても、借りたことはないというのが私の自慢。

どんなに生活が困窮していても、なんとか自力で乗り越えてきた。

だから文句を言われる筋合いが無いのだ。

お付き合いする人は、その辺のことをわかっていなければ成立しないと思うのは私だけだろうか?

以前にも書いたが、結果を残す人の殆どが周囲から反対され理解されない人達である。

九十九パーセントの人が、けしからんと眉をひそめる。

しかし、たった一パーセントの人は、それでも自分の考え方を曲げない。

九十九パーセンの人は、一パーセントの人が結果を残すとコロッと態度を変え、褒め称える。

失敗すると、それみたことかと非難する。

 

「俺の言うことを聴かないからだ!」

「何度も止めろと言ったじゃないか!」

 

一パーセントの人はそれでも自分の感性や思考を信じているため、失敗を失敗とすることはない。

今回は結果を残せなかったけど、諦めてはならないと奮起するのである。

そのように生きていれば、最終的には結果を残す。

失敗を失敗として反省しろと言う人こそ、九十九パーセントの人だ。

 

 

ハッキリ言うと、九十九パーセントの人々と折り合いをつけながらやって行くのはとてもとても疲れることだ。

平行線だからだ。

私は相手がどんなに親しい人でも、その他大勢の意見には流されない。

あまりにも平行線でぶつかるようならば、距離を置くことも考える。

相手は私のことを心配して、行動を抑止しようとしているのだとは思うが、私からしたらお節介なのだ。

そんな私のことを優しく包み込んでくれる人はいない。

私に共感して、応援し、自分のことのように考え手を繋いで歩んでくれる人もいない。

大きな目標がある私としては、たまにふと孤独を感じる。

しかし、孤独に慣れてしまっている自分もいる。

私のことが好きだと言ってくれる人はいるが、その人は私のことをどこか否定的である。

たまに想うのである。

じゃあ、一体私の何が好きなんだろうかと。

そういう私も、誰かのことを理解できてはいない。

 

 

九十九パーセントの人は世間体と常識を重んじているように見える。

私にはその概念がない。

どう思われようと構いはしない。

揺るぎない信念があるのみだ。

今の私はSNSの中だけに居場所がある。

友達はいるけれど、それはそれでこれはこれ。

こうして文章を書いている時のみ、孤独を忘れられる。

しかし、パソコンを離れると、現実が待っている。

友達と電話している時は、自分は一人じゃないような錯覚に陥るが、生活を支えるのも作品を創るのも一人である。

せめて、寄り添ってくれて応援してくれる人がいればいいのだが、あいにくいない。

しかも私はこうして毎日書いている文章を読んでくれない人のことは眼中にないのである。

どんなに私のことが好きで、私を求めていたとしても、読んでいないくせにと思って白けてしまうのだ。

 

 

つまり、日々の投稿を楽しみにしてくれていて、尚且つ私の夢を応援してくれるような人がいたらいいのになって話。

その上で色々アドバイスしてくれるのなら、私は真剣に聴く。

否定的な人とは平行線なので、心が安らぐことはない。

ということは、満たされていないということだ。

これ、いつか書こうと思っていた話。