nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

生き延びる唯一の方法

暑さとハードワークでクタクタのバテバテ。

しかし、帰宅して夕飯を済ませ、パソコンに向かうとこの上ない幸せを感じることができる。

寝るまでにあと一時間くらいしか時間がないのだが、この生活は悪くない。

ただ、通勤中思うことがある。

この夏さえ乗り越えれば、私はなんとかなるだろうと。

完全に体力を消耗しきった状態で、最寄り駅の前にあるスーパーで安い赤ワインや、卵、納豆などを買い占めとぼとぼと家路に着いた。

汗だくで、ドロドロ。

それでも帰宅してやることは、缶ビールを開けることだ。

シャワーを後回しにして、キンキンに冷えたビールを飲みながら煙草を吸うと、心の底から「お疲れ様」と言いたくなるのである。

この暑さの中、炎天下で車椅子を自動車に乗せたり、入浴介助をするのは本当に体力勝負である。

こうして介護職をしていると、ブルーカラー労働者だった過去を思い出す。

工場や、警備員や、ゴミ処理場や、魚屋だ。

張り切って通勤するものの、帰りにはこてんぱんにやられたボクサーのような状態になっていた。

もしかしたら手の抜き方を理解していないからかも知れない。

毎日が戦場で、毎日が大会だった。

ただ、真剣に仕事をしていたので、少しずつ上達した。

だから、介護職も少しずつ慣れて上達するのだと励ましている。

大変なのは、この夏だけだと言い聞かせている。

秋になれば陽射しも和らぎ、ある程度仕事も覚えて、軽やかになっていることだろう。

だから、この夏さえ乗り越えられればというようなことを言うのだ。

 

 

決して守りの人生ではなく、攻めの人生を送っているつもりだ。

未経験の介護職をしているのも攻めている証。

攻めの人生とは、傷つくことやコケることを恐れずに体当たりすることである。

体当たりを積み重ねて行けば、必ず運命的な出会いに辿り着く。

私はそれを信じて止まない。

事実、小説『ロックンローラー』を読んだことがある方にはわかるかも知れないが、「天は自ら助くる者を助く」。

目の前に差し出されたものを一生懸命やれば、なんとかなるという話。

死んだ沖縄の爺ちゃんも言っていた。

天涯孤独の人間がこの世で生き延びる唯一の方法がそれであると。

私は天涯孤独ではないが、親子関係はあまり上手く行っていない。

しかし、四十歳過ぎて、親の愛を求めるのもおかしな話じゃないか。

だから半ば諦めている。

五歳の頃に感じた母親の印象って案外変わらないものだなとも思う。

ただ、私はもう五歳ではない。

許すも許さないもない。

私の人生は私の人生、親の人生は親の人生。

 

 

結局のところ見守るしかできない。

この辺についてはいつか私にパートナーが現れたら、その人に親子の在り方について訊いてみたいものである。

複雑な親子関係だが、悩んでいるわけではない。

もしかしたら攻めの姿勢は、悩みも起こらないのかも知れない。

今更悩んでも仕方がない。

私としては、自分の親とは距離を置いた方が人生上手く行くと思っているので、相手の親を大事にしたい。

まぁ、来年辺りまた親に会う機会があるだろうけれども。

そう考えると、攻めることと諦観することは似て非なるものかも知れない。

事実上、私は何もかも捨てたことになる。

家族、家、車、金、見栄、恥。

家族というものに諦観しているからこそ、仕事を体当たりすることができる。

いつだか貴女は家庭運がないと言われたが、その続きがある。

子供ができたら運を吸い取られてしまうから、夫婦二人っきりの方がいいだろうと。

遠距離恋愛や歳の差婚など、変わった関係を築きやすいとのことだ。

これはたかが占いなどというものではない。

ブルーカラー労働者としてガンガン毎日かっ飛ばせるのは、私がある意味これ以上捨てるものがないからだ。

人生は自分の思うようになると言いながら四十代に突入した。

しかし、生活レベルも立ち位置も何も変わらない。

つまり、私には失うものが無いのである。

だからこそ怖いもの無しで生きられるのだと言いたい。