あまりにも暑すぎて倒れる寸前だったが、やるべきことを終えて帰宅した。
川口市は以前住んでいた街。
ビールでも飲みに居酒屋へ寄り道したかったのだが、暑すぎて直行直帰。
やっとの想いで帰宅して、ビールを飲んでも身体が冷えない。
熱中症寸前だったんじゃないの?
ヤバヤバ、仕事の疲れも相まってグッタリだった。
とにかく何か食べなきゃと思い、焼きそばと豆腐を食べた。
私の著書『ロックンローラー』の発送手配などをしていると、気づいたら元気になっていた。
ところが、ポストへ向かう途中歩いていたら、ほのかに筋肉痛であることがわかった。
終いには、太腿の付け根が痛い。
歩きすぎたのだろうか。
あぁ、やはり疲れているんだなと思った。
ところで恐怖に打ち勝つ方法って何だろう。
自分を信じること以外にないのではないだろうか。
もしくは、物事を深く考えすぎているのかも知れない。
友人はよくこう言う。
「よそ様の人はそれほどあなたのことを気に留めてはいない」
確かにね。
だが、たまにアカウントを全消ししたり退会したりして姿を消してしまう人がいる。
原因が私にあるとは思えないが、私は彼ら彼女らのことが気になる。
どうしたんだろうと。
ただ、数週間経ち、私も忙しくしたりしていると傷は癒える。
仮に私が投稿するのを止めたら悲しむ人はいるのだろうか。
少なくとも一人や二人はいるだろう。
つまり、恐怖に打ち勝つ方法って自分を信じるしかないのでは?って話。
自分がやっていることに価値を感じられるかどうか。
私の日々の投稿は日記のようで誰かへのメッセージでもある。
手段がこれしかないのさ。
毎日皆と電話したりできない。
じゃあどうする?と考えたら、毎日決まった時間に投稿して生存確認し合うしかないと思った。
人間なんてちっぽけな存在。
だからこそド派手に生存アピールしないと消えてしまうものでもある。
私には仕事もあるし、執筆もあるから、この程度のことしかできないが、全力で生きているつもり。
恐怖って、結局目に見えないものに怯えているだけのような気がする。
私にも恐怖は実はある。
それは見たことのない存在。
前にも書いたが、好きな人の元カノとか元嫁が怖い。
いい歳こいて恥ずかしい話だが。
私が廃れていくことにはあまり恐怖を感じていない。
何故なら毎日自分にできることを全力でやっているからだ。
悔いなんてものがない。
いつ死んでもいい。
これについても悔いがないからだ。
ただ、パートナーができたら長生きするしかないよね。
一人にさせるのは可哀想じゃんね。
そう考えると、好きな人を一人にさせることが恐怖に変わる。
話を元に戻そうか。
友人は言う。
「よそ様の人はそれほどあなたのことを気に留めてはいない」
だけどパートナーにとってはせめて私はかけがえのない存在でありたい。
パートナーから気に留めてもらえなかったら、別れるか死んだ方がマシ。
尤も、自分の行いに自信があれば、犬死したって構わない。
自分が自分を認めていれば、恐怖など無いのかも知れない。
廃れていくも何も、まだ浮かんでもいない私が廃れる心配などする方がおかしい。
きっと完全燃焼したアカツキには、落ちぶれた自分さえも愛おしく思えるだろう。
つまり日々自分にできることを精一杯やっていれば恐怖って消えていくものなのではないか?
私はつい最近まで最悪な三年間を送っていた。
そんな私から多くの人が離れて行った。
しかし、それ以上の人達に出会うことができた。
人生って、どこかで帳尻合わせができるものなんだなと学んだ。
ということは、恐怖に打ち勝つ方法って呑気に構えることかも知れないね。