橋岡蓮 ’s diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

経験から耐え忍ぶ

疲れてはいるのだが、やはり少しだけ疲労が軽減されているようだ。

当初のような死ぬほどの疲れではない。

うだるような熱帯夜。

日中は灼熱地獄。

これもあと少しの辛抱だろう。

職場のリハビリセンターでは、介護のプロフェッショナルになるように命じられた。

私って、高齢の方相手の体操のお姉さんで入ったはずなのに。

しかし、そんなことは言っていられない。

プロフェッショナルにならなければならない。

大勢を相手にするのではなく、個人を相手にするのだということをこっぴどく言われた。

利用者さんにとっては、十年務めている責任者も私も変わらないのだと。

お金をもらっている以上プロなんだと。

甘えなんてものは許されないのだと、くどいくらいに懇々と説得された。

私としては入って間もないにもかかわらず、立派に業務を成し遂げているつもりだった。

それでも、周りからの期待値はもっともっともっと高いのだ。

ただし、どこへ行っても通用する人間になりたいという気持ちがある。

だから、この職場を自分のものにしてしまえばいい。

そうすることによって、次の現場で活かせるに違いないからだ。

仕事を覚えるスピードはかなり速いはずだ。

しかし、だからこそもっと上のレベルを求められるのかも知れない。

だとしたら、頭の中フル回転で着いて行くしかないと思った。

シフトが少ないのが不満だが、一人前になったら増やしてもらおう。

今はまだ図々しいことは言えない。

 

 

今月はどんなことを言われようと、どんな待遇だろうと忍耐だ。

忍耐は頭でわかっていればできるもの。

理解できないことへの忍耐は辛いかも知れない。

ところが頭で理解していることに関しては人間って耐えられるもの。

忍耐が美徳とは言わない。

ただ、必要な時に忍耐を放棄すると、路頭に迷う可能性もある。

迷子になってもいいのだ。

ただ、路頭に迷うとは貧困を伴うし、リスクが高すぎる。

例えば、私は物書きとしては完全なる迷子である。

しかし、作品を残してきた。

万が一、作品創りを止めていたら、それは路頭に迷ったと言うのだ。

文章を書くという真っ直ぐな道を定め、その中で迷子になるのは良い。

書くことを諦め、職を転々としてしまえば、自分で自分のコントロールができなくなってしまう。

自分の定めた道を歩むには忍耐は必須だと思う。

鳴かず飛ばず、閑古鳥が鳴くこともあるだろう。

それでも諦めず、書く手を止めないことが大切なのでは?

あくまでも私の場合はそうだった。

サラリーマンでも、公務員でも、職人でも、フリーターでも、自分の道を定めた人は強い。

その道に忍耐とは組み込まれていることを知っているからだ。

 

 

利用者さんの中に、ご夫婦で来院している方がいる。

結婚六十五年間だそうだ。

明治の時代は忍耐が当たり前で、私のようにたった三年間で離婚する人などいなかったとか。

忍耐に忍耐を重ねて今があるとのことだった。

時代は変わったわね、みたいな話で盛り上がった。

およそ九十歳になられるご老人との会話だった。

しかし、私としては忍耐するべき時期とそうじゃない時期があると思っている。

それは自分で考えろって話。

私ごときの経験から言うと、こういうことになる。

目標達成したい時期を定めて、そこから逆算するのさ。

今耐えれば、この時期には未来が明るくなるとね。

逆も然り、今は良いけど、この時期は忍耐だとか。

人生には波があるということは常に頭に入れておく必要がある。

わかり易く言うならば、いい時と忍耐の時は交互にやってくるということだ。

それらのことは経験からしか学べない。

特に波乱万丈に生きていなくたって、過去を紐解いて行けば見えてくるのではないだろうか。

だから私は今は全てのことに対して波風を立てず、忍耐を選ぶ。

その代わり、秋になったらこの忍耐を活かして存分に人生を満喫するつもりでいる。

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