nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

根拠のない自信

私用を終え、気づいたら駅中スーパーの寿司コーナーの前にいた。

 

「ウニ、ホタテ、久々に食べたいけど贅沢だよな~」

 

そう思いながら、散々迷った挙句、何も買わずに電車に乗った。

最寄り駅前のスーパーで、結局おにぎりを買って帰宅した。

さほど気温は高くないが、異様に蒸し暑い日だった。

帰宅後、缶ビールを一本空け、ツナマヨおにぎりを食べ、本を読んでいたら寝てしまった。

昼寝なんて久々のことだ。

寝て起きたら、私って平和だな~なんて思った。

流石にツナマヨおにぎりだけではお腹が空いたので、ゆで卵を作って食べた。

赤ワインをチビチビとやりながらこれを書いている。

翌日二度寝しないように、早めに寝たい。

寝るまでの空白の時間、パソコンに向かえることに幸せを感じる。

昼寝したせいか、ちょっぴりボーっとしているけれども、書き進めて行こう。

 

 

私はこうして自分の周りで起こった出来事や自分自身のことについてここで語らせてもらっている。

ある人はそれを「日記」と呼ぶが、ある人は「コラム」と呼ぶ。

どちらも正しいし間違いはないのだが、もっともっと奥深いものでもある。

大袈裟に言うならば、私は世の中の「奇跡」について信じている節がある。

毎日自分のことについて配信するということは、目には見えないものを信じ切る強さが必要なのだ。

何かに書いてあったが、自分のために書くのではなく誰かのために書くのが良いとのことだった。

ん?

私はそれについては少々疑問を抱いた。

いやいや、いやいや、全ては自分のためだろ!

こんな意見を頂戴した。

 

「利用者さんを預けている家族は自分のために利用者さんを預けているのである」

 

全く以てその通りだと思った。

人のため、人のためというヤツに限って自分の利益を追求しているのではないだろうか?

金じゃなくても、自分を満たしてくれるものを探しているのではないか?

私はそんな風に思ってしまう。

全ては自分のため、だから自己責任。

そのような認識を持てる人ばかりだったら、争いは起こらないだろう。

人のために文章を書いている人はどんな文章を書くのだろうか?

私の場合は自分を確認するための手段である。

時として、私の作品が人々を勇気づけ、元気を与えるのとは話が別である。

それにしても『破壊から再生へ』と『ロックンローラー』の両方を読んだ上で尚且つ私を支持してくれる人って最強じゃないかと思う。

離れて行ってもおかしくないのに、味方でいてくれる。

こんなに心強いことってあるだろうか?

 

 

多くの人間が私の前に現れ、また、多くの人間が去って行った。

何故去って行くかというと、私が凄まじいエネルギーを発しながら進化しているからだ。

着いてこれない人もいれば、何か変わったと受け取る方もいるかも知れない。

ただ、少数派かも知れないが、長きにわたって「見守る」に徹してくれている人もいる。

私の前から消えていく人の中には、私を変えようとした人も含まれる。

予め言っておくが、私は人の言うことなんて聞くような人間じゃない。

この人の言うことなら何でも聴きます、みたいな人はいるけどね。

基本的には、自分で考え自分の意思で行動したいので、そういう意味では非常に我が儘である。

ただ、良くも悪くも、それが私。

根拠のない自信で溢れているのさ。

だからこそ目には見えないものを信じることができ、それを励みに生きることができる。

つまり「奇跡」というものを信じる強さを持っていることになる。

目に見えるものしか信用できない人は、どこか怯えている。

世の中はもっとイージーであり、気楽なものであると私は言いたい。

故に、目の前から多くの人が去って行っても怖くないのだ。

また違った形で私のことを訪れる人々が現れるとわかっているから。