nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

卑怯な大人達

最近本当に朝が弱いので、いい加減に早く寝るぞ。

久々に戴き物のゴーヤーでチャンプルーを作った。

赤ワインと一緒に食べたのだが、妙に喉が渇いたのでこれからビールでも飲もうかなというところである。

日が暮れたら養命酒を買いにドラッグストアへ行きたいので、その前に書いてしまおう。

オリーブオイルや醤油も切らしてしまったが、一度に買うのは重たいので、仕事帰りにでもぼちぼち揃えることにする。

 

 

今日とある人と話をしていた。

 

「蓮ちゃんって幼少時代、本当に虐められてたの?今の蓮ちゃんからは想像も付かないよ」

 

とのことだった。

私はどこにも属せない人間だった。

それは今に至る話なのだが、子供の頃、真面目グループとも不良グループとも話がまるで合わなかった。

一人ポツンと浮いた存在だったので、もしかしたら私は間違っているのかも知れないという錯覚に陥ったほどだ。

ものの見事に私を庇う人は一人もいなかった。

同級生、先輩、後輩、先生、保護者、そして親。

一番の理由は、一日も学校を休まなかったことと泣かなかったことだ。

だから周りは深刻に受け止めなかったのかも知れない。

とっくに気づいていたであろう先生や親は見て見ぬふりをキメていた。

「卑怯」という言葉を覚えたのはその頃からだったかも知れない。

要は、私に対して大人が甘えていたのだと思う。

まぁ、そのお陰もあって、私は社会に出てもよほどのことがない限り仕事を休まない人間に育った。

そう考えれば親の教育は間違っていなかったのだろうか?

ただ単に私は他の子に比べて、忍耐強く負けず嫌い、もっと言うならば、休む勇気が無かったのだ。

先生や親に甘えて、辛さをアピールする「度胸」もなかったのかも知れない。

振り返ってみて、今とあの頃ではあまり変わっていないなと感じる。

確かに私って人に甘えるのが苦手かも知れない。

ところが、抵抗なく甘えられる人には、自然と心を開いているような気もする。

一度心を閉ざしたら、なかなかそれは開かれない。

なぜなら、卑怯という言葉を子供の頃に覚えてしまったからだ。

卑怯な大人を、自らの中で軽蔑視しているのだ。

大人は経験から「察する」という力を身に付けている。

それなのに見て見ぬふりができるのは、卑怯なのだ。

例えば、私がとある世界でボコボコに叩かれていた時、それを知っていながら見て見ぬふりをした人は大勢いる。

しかし、そういう人間ばかりではない。

さり気なく共感を示してくれたり、優しさを見せてくれたりした人もいる。

 

 

何が言いたいかって、もしかしたら世間から浮いてしまう強い人間に限って虐めの対象になっていたかも知れないということだ。

いつも笑顔でニコニコ、大らかな人間だって陰では嫌がらせされているのかも知れない。

ただ、私には虐める人の気持ちがイマイチわからない。

嫌いなヤツは放っておけばいいだけじゃんね?

人を叩くことに快感を覚えているのだろうか?

私のようにどこにも属することができず一匹狼的存在の人は、本人もそれを望んでいればそれでいい。

ただ私は、幼少時代は皆の輪の中に入りたかった。

それが四十数年経っても叶わないと知ったからこそ、無頼の精神などを重んじているだけである。

根本的には、人間のことが大好き。

だけど、上手く溶け込めない。

そうであるが故に、自由だの、孤独だのと抜かしているだけに過ぎない。

できることなら愛されたいし、私も人々を愛したい。

と言いながらも、この歳になると一人の気楽さも重々わかってしまうわけで。

かといって、家庭の良さも知ってしまったわけで。

虐められるのはもうゴメンだが、虐められる側にも非があると云うのか?

責任や罪とか、そういう問題ではない。

単なる個性である。

それでも世間というものは、横並び精神なのだろうな。