酒が飲みたい気分でもないので、読書する前にこれを書いてしまうことにした。
私は介護職に出会うまでは、老後や年老いてからのことを考えもしなかった。
五体満足ではなくなるかも知れない可能性についても想像することすらなかった。
天はそんな私に「考えろ」と言っているような気がする。
お告げのような、そんな感覚に囚われることがある。
仕事で疲れていると、色んなことが煩わしい。
しかし、その仕事がなくなり、ポカンと穴が空いた時、私はどう生きるのかと考えてみた。
幸い私には文章を書くという天から授かった救済のようなものがある。
しかしそれは目が見えて、両手でタイピングできてこそ成り立つものではないかと思った。
そう考えると、月並みな表現だが健康に感謝すると共に、これまた今しかできないことかも知れないような気にもなってくる。
私が働くリハビリセンターに通う利用者さんの多くは、手が十分に使えない。
利き手が麻痺していたりして、文字が書けない方もいらっしゃる。
生き急ぐつもりはないのだが、やはり元気でいられる時を満喫する必要があるのではないか。
書きたいことで溢れている「今」こそ、書くべきではないか。
そんな気がするのだ。
書くことは生涯続けるつもりでいる。
だから書けなくなることなど想像もしていなかった。
ところが「もしかしたら」と、私らしくない妄想をするようになった。
四十代が始まって何年か経つが、自分のペースでいいから書いて書いて書きまくった方が自分のためになるように思った。
基本的に私は完全なるフィクションは書かない。
というより書けないのだ。
自分の人生がコロコロ転がるロックンロールのようだから、それを物語にしてしまおうと考えている。
そういう意味では、贅沢すぎる経験をしてきたつもりだ。
文章を書くことはとても上手なのにネタがない人が大勢いる中で、私は恵まれているような気がする。
その人生を書けと、これまた天から言われているようにも感じている。
人が喜ぶかどうかではなく、天が喜ぶことをすると良いと誰かから聞いたような気がする。
というわけで、秋になったらボチボチ新作を書こうと思っている。
何故秋なのかは、言うまでもない。
少しは身体が慣れて楽になって、書く余裕が生まれてくるような気がするからだ。
それまでは、まだまだ暑いし、読書に耽ることにしたのだ。
天と会話できたらこれほど楽なことはないが、何となく何を言わんとしているのかわかる。
私は勝手に天から選ばれた存在だと思い込むようにしている。
社会になかなか適合できなかったのも、不器用にしか生きられなかったことにもちゃんと意味があるのだと思っている。
安定的な人生を送ることができていたとしたら、私が書く文章は全くの別物になったことだろう。
自分で言うのもなんだが、悔しさや寂しさの分だけ作品は磨かれて行くものだと思っている。
このような人生を歩む羽目になったのは全て作品創りのため。
そう思うことができた時、何もかもを許せるようになった。
天が私に介護職を授けた意味については、まだまだ考え中。
体力的にいつまで続けられるのか不安もあるが、還暦近くなっても現役でプレーしているサッカー選手もいる。
トレーニングとコツ次第では、私も定年まで続けられるかも知れない。
二足の草鞋を履けるかどうかではなく、二足の草鞋が必要な時代。
天から道は用意してもらったので、あとは歩くだけ。
自分が何者かがわからない人が多い中、ある意味私は救われているのだと言い聞かせることが自己肯定に繋がっている。
言うまでもなく、天なんてものは存在するのかわからない。
そんな目に見えないものを支えに生きているからこそブレずにいられるのかも知れない。