たまにこんなことがある。
子供も作らず、離婚して、一人で生活していると話すと言葉に詰まった様子。
まるで悪いことを訊いてしまったと言わんばかりの気まずい空気が流れる。
すみません、などと言われることもある。
以前にも書いたが、自由な割にはどこへも遊びに行かず、家に一人で読書をしたり酒を飲んだりしていることが大半な私。
とても静かな空間で、文章を書いたりしているそれだけの女。
ところが私としては、日常に幸せを感じている。
それは、煩わしいものがいないとか、気楽だとか、面倒臭いことがないとか、そういう問題ではない。
一人も良し、二人なら尚良しという考え方だからだ。
考え方一つで、心配されるような憐れな暮らしがハッピーそのものに変わるということが言いたい。
やるべきことを終わらせた休日の昼過ぎに「さて読書」そう思って真剣に本を読んでいると、ふととてつもない幸福感が私を包む。
本来、私はどこか孤独な人に惹かれる傾向がある。
それは友達がいないとか、そういうことではない。
孤独感というものに理解があるという意味だ。
無論、そういう人じゃないと、私の文章の必要性は感じないかも知れない。
だから孤独な人を見ると、寄り添いたい気持ちになる。
そんなこともあって、孤独に読書を楽しんでいる自分がとても愛おしく感じることがあるのだ。
たまに、蓮さんは何が楽しくて生きているのか?と訊かれることがある。
私としては、無音の部屋でビールを飲んで考え事をしている時ですら安堵に包まれている。
無音や読書に飽きるとロックを流す。
そしてパワーをもらい、明日への活力にする。
時には子守唄にすることさえある。
そうして、暗闇の中で眠る。
テレビもないし、あるのはパソコンだけ。
実はコンポだってレコードプレーヤーだってない。
そんなシンプルな生活を送っている自分を客観視した時に思い浮かべる言葉は「それでも私は満ちている」というものだ。
孤独というものは、紛らわすことよりも味わうことの方が難しいものである。
しかし、一人を満喫できない人は誰と一緒にいても虚無を感じてしまうのではないか。
もし生まれ変わって男になったら、私にみたいなヤツを好きになる。
女として生まれ変わっても、再び私みたいな人生を送る。
そんな風に想ったりする。
もっと言うならば、私みたいな人間は幸せ以外の何ものでもないような気がする。
傍から見て不幸なことが、本人にとって幸せというのは無敵なこと。
そんな孤独慣れしている私の一番の理想は、この世で俺とお前しかいないという二人っきりの世界。
いい意味の結束力と、互いに依存し合うことは美学だと感じている。
その極地に至るまでの努力は惜しまないつもり。
せっかちになってもいけない。
信頼関係を育み、世界観を共有し合いながら生きて行きたいものである。
寂しさとは噛みしめるもの。
幸い私は「作品」というものにぶつけることができる。
誤魔化さず、それに浸れば浸るほど、説得力は増す。
圧倒的な孤独感を抱き、寂しくてどうしようもなく、心が震えっ放しの世界を描いたのが『破壊から再生へ』。
あれから十年、本質的なものや主張は変わっていないものの多くの読者の方との出会いのお陰で心の震えが止まったようだ。
とある人はレビューにこう書いてくれた。
「不幸にも美しい不幸がある」
確かにそういうことだ。
私の自伝的小説『ロックンローラー』に関しても、泥沼は蓮の花を咲かせるのに必要だったのだと思わせてくれる。
どんな不幸も気の持ちようでは「幸」なのだ。
全てはまず、「肯定」することから始まる。
あの時の不運があったからこそ、人の気持ちを察することができるとか。
そのようなことの積み重ねが自己肯定感だ。
好きな仕事をしていれば趣味など必要なくなる。
結局自分を満たすものは何なのかって話。
仮にそれが異性だっていいのだ。
堂々と生きて行けば、私のように退屈が愛おしくなったりするだろう。