気づいたら、きっかけを与えて去って行く人がいる。
何気なく現れ、私に何かを教えてくれ、通り過ぎてゆく。
結ばれることはないけれど、ある意味運命的出会いだったのかと思ったりもする。
その類の人は、実のところ非常に多い。
あの人との出会いとは、私にとって何だったのだろうと考えさせられる人ということだ。
突如として現れ、あっけなく消えていく。
儚いものに美学を感じながらも、残して行った爪痕を眺めている。
私にとって愛おしいものは何か、大切にすべき人は誰か、そういったことがその爪痕には映し出されているようだ。
きっかけというものは、人から与えられることもあれば自分で見つける場合もある。
例えば、男女問わず、誰かから言い寄られたとする。
だけどその人とは、何の関係にも発展せず別れが来るとする。
それは友達にもならない、恋人にもならない、同士にもならないという意味だ。
ただ、残して行った言葉がある。
それをきっかけに、私は大切な何かに気づいたとする。
そのような時、その人との出会いは不思議だけれど意味があるものだったと考えられるのではないか?
私が誰かにきっかけを与えることもあるだろう。
こちらから想いを寄せていた人は別の誰かを見ていた。
けれども私を振り切ったことで、別の誰かへの特別な想いが確固たるものになったとかね。
そういうことは誰にでも往々にしてあることだ。
そのようなエピソードなら幾らでもそれぞれ持っているはずだ。
以前、私を買い被っている人が結構いた。
逆に、私のことを怪しんでいる人もいた。
買い被っていた人達は、『ロックンローラー』が自費制作作品だとわかった時点で離れて行った。
いやいや、私は自費制作作品しか出したことはない。
中身も読まないで判断されるなんて、と思ったこともある。
買い被っていた人達は、当然のことながら『ロックンローラー』は出版社から正式に発売されるものだと思っていたらしい。
「どこの出版社?どこの本屋に並ぶの?」
みたいなことを私に訊いた。
「自費制作作品です。ホームページかAmazonで買ってください」
堂々と私はそう答えた。
すると手の平を返したように、私への態度が変わった。
そして気づいたら、消えていた。
そういう人達っていうのは、私が紡ぐ文章に救われていたのではなく、ただのミーハーだったということだ。
ところがこんな人もいた。
「蓮さんは、知る人ぞ知る存在だからいいんだ!」
そうだそうだ!
声を大にして言ってくれよ!
もっともっと!!!
今に見てろよ、って思う。
今、私を応援してくれる人達を裏切らないためにも私は頑張るのだ。
話を先に戻すならば、ミーハーだった人達は私にナニクソ根性を与えるきっかけになってくれたのかも知れない。
もしくは、今応援してくれている人達を引き立ててくれた存在とも言えるだろう。
そういう意味では、ミーハーだった人達とも出会う運命だったのかなとも思う。
人間にはそれぞれ「役割」があるような気がする。
見守り役、恋人役、観衆役、上司役、様々だ。
つまりきっかけを与えてくれる人っていうのは、それなりの役割を神から与えられて私の目の前に現れたのだろう。
そんな風に考えれば、その人を尊重することができるのではないか?
何気ない出会いにも感謝することができるはず。
長々と語ったが、それが究極のポジティブ思考。
いちいち悪い方に捉えず、プラスに転換することで運の流れも良くなるように思う。
まぁ、あとは自分にとっての恋人役は誰なのか、のんびり眺めていればいいんじゃないかな?
自分から掴もうとするから疲れるのさ。
あまり頑張らなくても運命はちゃんと決まるようにできている。
残る人だけが、残る。
最後に残ったたった一人を大切にできれば、ある程度幸せになれるような気がしてならない。