nakanakadekinai's diary

単なる日記でもなければ、単なるエッセイでもない

全てに宿る最終日

終わりを意識すると上手く行くというようなことは大いにあると思う。

いつか最終日が来る…。

人間づきあいも、仕事も、恋愛も、物語もそうだ。

そう考えると、一日一日やこの瞬間を大切にできるのではないか。

人生もそうだと思う。

縁起でもない話をするなと殴られそうだが、生きているものは必ず最終日を迎える。

若い頃から終活しろと言っているわけではない。

ただ、終わりは来るのだ。

肝心なことはそこから逆算して物事を考えるとどうか?という話。

最終日に向けてペース配分をするようになるだろう。

それが一番大事なことだと思うのだ。

またもやスポーツ選手の話になって恐縮だが、スポーツ選手は現役でいられる期間に限りがある。

だからこそ、いついつまでにオリンピック、その後はワールドカップ、世界進出、コーチ、監督、とペース配分ができる。

私の場合は介護職に出会って、六十五歳が定年だとするとどうすれば良いのかと考える。

そう考えた時に、この十年間はとても貴重なものだと認識した。

気力も体力も十分な今こそ、勝負の時だとね。

やはり最終日を想定するからこそ生まれる発想だ。

あいにく、文章を書くことにい於いては最終日が無い。

あるとすればあの世へ行く時だろう。

だから「死」から逆算して書くことができる。

多くの作家が遺書を書いているようにね。

 

 

私は『破壊から再生へ』を遺書として書き、『ロックンローラー』もまた遺書として書いた。

ところが若すぎたみたいで、遺書にならなかった。

次の作品についてはインスタライブで触れるが、遺書にはしないつもりだ。

人間は「死」を選べない。

神のみぞ知ることなので、それまではいつ終わるかわからない人生を生きなければならない。

自ら死を選ぶ人もいるが、私はそれはしない。

今まではそれについて一つの美学を感じていたのだが、介護職でお年寄りに接するようになってからは考えが変わった。

現役を引退した老後も悪くないと思えるようになったのだ。

 

 

この投稿もいつか最終日が来ると思ったら哀しいが、その日は必ずやってくる。

若い頃は自分が四十代になるなんて想像もしていなかった。

しかしちゃっかりと四十二歳になり、四十三歳になる日は間違いなく訪れることだろう。

正直に言うと、少々焦りを感じている。

でんと構えて新人賞を取る日が来るのを待っているが、私としてはこのまま終わるわけにはいかないのである。

階段を登り、頂上を目指し、折り返し地点まで行って、全て納得した上でこの世を去りたい。

私みたいな女は映画になってもおかしくはない。

そう『ロックンローラー』だって映画化されるべきだ。

これからの努力次第だと思っている。

 

 

それにしてもこれを書きながら何度寝落ちしたことか。

相当お疲れだと見た。

親しくしていた人が今年に入ってバタバタと消えた。

原因がわかっている場合もあれば、全くわからない場合もある。

毎日のように連絡を取ったり、中には酒を飲み交わした人もいる。

それなのに離れて行った。

やはり永遠など存在しないのだなと思う。

どんなに大事にしていても消える時は消える。

まるで最初から決まっていたかのように感じる。

彼ら彼女らとの最終日、私は何を伝えたのだろうか。

もしかしたら私のたった一言に傷ついて離れたかも知れない。。

もしくは私とは関係ない「事情」があったのかも知れない。

唯一わかっていることは、私の目の前にはもういないということだけだ。

だからといって、悲観的になったりしない。

世の中そんなものだからだ。

それに関して、悪い人など一人もいない。

最終日が来ただけに過ぎないのである。

最終日は永遠だ。

色褪せることはあるにせよ、変わることはない。

消えていく人の共通点は無言であるということ。

聞いたことがある。

人間関係には賞味期限があるって。

つまりそういうことなんだよな。